みヅゑ…

流転の好事家あたしかの公開備忘録

【資料】たに あらた「遠藤利克の作品について」(1986)

 

 遠藤利克の作品は、そのあらわに示された物質性とはうらはらに、意味の過剰によって担われている。最初期の発表のころから、彼が水をもちいたことによって、私はそこに通常の造形理念とは別種の作品性格を見出さざるをえなくなったが、このことは彼の他の物質への対処のしかた(たとえば火、空気、太陽も大切な要因になる)を含めて、等しくうかがいしれるものであった。つまり、オーソドックスな造形理念を超えるアルケオロジー的物質への対処が濃厚に見られたのである。

 

 行為の痕跡を結果的に表明していた水は、やがて’78年ころより’80年代にかけての発表を通じてよりシンボライズされた意味を示唆するようになる。今回発表の3つのピースから成る木の円柱状の作品は、その後の「棺」などの作品に見られる“隠蔽された水”にいたるステップとなるものだが、時系列を視覚にひきつけてシンボライズした点でほとんど唯一といってよい作品である。

 

 時系列は遠藤の場合、ほとんどロングスパンの歴史に通底しているが、あたかもその発達史のエッセンスを凝縮したような象徴性を担っていたのがこの作品である。3つのピースはそれぞれ1カ所ずつ水を湛えているようにえぐられ、そこに水をためているが、これらの関係構造は“単一と対[つい]”に分かれ、同時に’83年の発表では、単一の場所で火が焚かれ、対のホールでは静態的に水が湛えられるという関係構造で現象している。それは“生のものと煮たもの”といった関係で見ることも自由だが、それ以上に見落としてはならないことは、燃えさかる単一のホールの表出性(およびその結果としての根跡)と、やがて歴史基軸が必然的に現象させることになった対なる関係の絶対性が、その背後で揺れ動いていることであろう。単一と対なるものの接続の仕方にもそのことは見て取れよう。

 

 物体の相貌の背後に隠された意味のネットは、解釈の自在性に裏づけられており、以上のように読める必然性はないが、少なくとも遠藤は作品と作品を包み込むものの両意をもって、極めて根源的なアルケーを現在世界に再活性化させているのである。

 

 ※1986.6.23〜7.5にギャラリー白で開催された遠藤利克氏の個展に際して発表された。