福田新之助「存在と契約XXVIII」展

星光画廊で2026.5.18〜30に開催の福田新之助「存在と契約XXVIII」展を見てきました。1980年代から活動している福田新之助(1959〜)氏ですが、毎年ギャラリー白→星光画廊で行なう個展のタイトルを「存在と契約」に統一するようになっており、今回はその第28弾(!?!?)。




さておき、今回はタブローが大小十点と、絵本などにドローイングを施した小品が十数点というラインナップでした。当方は2011年の「存在と契約XIII」展(2011.7.11〜23、ギャラリー白3)で福田氏の作品に初めて接し、以降だいたい毎年なんらかの形で接し続けていますが、当初はモノクロの絵画(と若干のオブジェ)だったものが2022年の「存在と契約XXIV」展から一転してカラー化し、どことなく宗教画ないしステンドグラスの原画のような趣を見せるようになっている。先ほど述べたように当方は存在と契約I〜XIIについては未見なのでアレですが、骸骨、顔、樹木、虫などといった、様々な寓意を喚起するモティーフ群が毎年のように絵画に現われ、寓意的に酷使されているという点は以前から一貫していると、さしあたっては言えるでしょう。それは近年のカラー化と、新たな寓意的モティーフとして潜水艦が現われるようになっていることによって、さらに前面化していると考えられます。

先ほど述べたように、「存在と契約XXIV」展(2022.7.18〜30、ギャラリー白kuro)から出展作がカラー化し、描かれるモティーフに──新たなモティーフとして潜水艦が描かれるようになったこと以外──大きな変化はないものの画面を一瞥しただけでも宗教画的な様相がさらに強まり、それがさらに多様に変奏されながら現在にまで続いているのですが、福田氏にいかなる心境の変化があってのことなのかはうかがい知れないものの、かかる転換が2022年に起こったというのは氏の作品について考える上で重要なのではないか。2022年は言うまでもなくロシアによるウクライナ侵攻が起こり(現在も進行中)、19〜20世紀前半のような侵略戦争の時代が再び始まったのではないかという予感を多くの人々に抱かせた年であるのですが、そのような形で「国家」が暴力の主体として再びせり出してくるただ中において異形の宗教画を描くという福田氏の行為には、宗教的なものを絵画によってハッキングすることという主題が前面化している。
ここで近年潜水艦が描かれるようになっていることは、きわめて示唆的であると言えるでしょう。言うまでもなく潜水艦というモティーフは国家の寓意・象徴という意味を強く持っているわけですが、近代国家が宗教のハッキングとしてかなり強かったことは、言うまでもない。してみると福田氏における絵画による宗教のハッキングは(象徴権力の総体として象徴的に作用する)国家に対するそれであることが見えてきます。そう言えば福田氏が中澤てるゆき(1958〜)氏、濱本隆司(1957〜)氏と組んで始めたユニットTRIO EXHIBITIONが初めてグループ展を開催した時のタイトルは「遊戯としての国家」でした。いわゆる「関西ニューウェーブ」の狂想の中でデビューし併走してきた福田氏ですが、それが落ち着いてからの30年近くにわたる「存在と契約」という実践は「遊戯としての国家」の続きかもしれず、それが絵画による、国家とは違った形と論理による宗教のハッキングというところに焦点が合わさっていたのだとすると、氏の絵画に今接することの意味は、ことのほか大きいのかもしれません。
ところで当方が見に行った5月23日には福田氏が在廊しており、西天満や北浜/北船場一帯に点在しているギャラリーを中心に星光画廊も参加して開催されている「FESTART OSAKA 2026」の関連イベントとして、有志たちによるギャラリーツアーも開催されてまして、ツアー参加者に対する福田氏のアーティストトークを横から聴きながら鑑賞したのでした。自作についてはもちろん──「これらの絵では黒い輪郭線は最後に描いている」という氏の発言には普通に驚かされました──、大阪という場における「美術」のありようの歴史についての話もなかなか傾聴すべきものがありました。福田氏は今でも大阪市内の某専門学校で教鞭を取っているそうですが、東京や京都と違って大阪市内(特に大阪環状線の内側)には美大・芸大がほぼ存在しないことが、大阪という地における美術のあり方/ありようを考える上でけっこう無視できないんじゃないだろうかと、改めて分からされた次第。
【資料】小金沢智「77年後へのリフレクションKYOTO 2103」

以下は2026.2.6〜5.4に藤井大丸 7 galleryで開催された「77年後のリフレクション KYOTO 2026」展の掉尾として5.4〜6に開催されたクロージングセッションに際して、同展の共同ディレクターの小金沢智(東北芸術工科大学准教授)によって発せられたキュレーターステートメントである。「77年後のリフレクション KYOTO 2026」展は「日本画アヴァンギャルドKYOTO 1948-1970」展(2026.2.7〜5.6、京都市京セラ美術館)の関連企画として参加作家──山本雄教(兼共同ディレクター)、服部しほり、ベリーマキコ、松下みどり、タナカリナ、藤野裕美子、松岡勇樹、三瀬夏之介の各氏──たちが毎週末の公開制作をリレー形式で行なうという形で開催され、最後にこのクロージングセッションにおいて各氏がこのギャラリー内で競作を行なった。会場の藤井大丸は1949年に第1回パンリアル美術協会展が開催された場所であり、それから77年経っていることが「77年後のリフレクション KYOTO 2026」展という展覧会タイトルの由来なのだが、小金沢氏によるステートメントは今年からさらに77年後の2103年に向けられているという体裁で書かれている。
以下、本文↓
続きを読む西澤諭志「世界無名戦士の日」展

五条大橋のたもとにある半兵衛麩五条ビル2F ホールkeiryuで2026.4.18〜5.24に開催の西澤諭志「世界無名戦士の日」展を見てきました。写真家の西澤諭志(1983〜)氏の関西では初となる個展で、企画はインディペンデントキュレーターの長谷川新氏。
今回は西澤氏のここ数年の近作を中心とした写真作品と映像作品が出展されています。写真作品では氏が全国各地を回って撮ってきた風景や建物の写真が中心でしたが、大きな特徴として、2枚もしくは3枚の写真を一組にして額装していることがあげられるでしょう。つまりここでは一種の二齣・三齣マンガとして作品が提示されていることになり、かような形式が取られることで個々の写真(およびそこに写っている被写体)とともに、各コマ間の関係性=行間も主題になっている。つまり、この行間が歴史的過程や現在の政治経済社会問題、さらには文化的な諸差異などを導いているわけでして、その意味で写真間を繋ぐ「辞」((C)時枝誠記)の機能を担っていると言えるでしょう。写真を通じて歴史的過程や現在の政治経済社会問題をジャーナリスティックなストレートフォト以外の方法で指し示す作風というと米田知子(1965〜)氏の仕事をあげることができますが、彼女の写真が例えば何の変哲もない海水浴場が実はノルマンディー上陸作戦(1944)の場所であるといった具合に、かつて歴史的事件の舞台だったありふれた場所を写すことで行なうのに対して西澤氏は別の形式を採用しており、この発想はなかなかなかったなぁと感心しきり。
もう少し具体的に見てみますと、今回出展されていたのはこのシリーズだったのですが、例えば沖縄に赴いて撮影された《道の駅かでな 展望所/学習展示室》では、米軍嘉手納基地をのぞむ道の駅の遠景写真と展望台で離着陸を見物する人々の写真、そして道の駅内に作られた嘉手納基地設立の過程と現状を紹介するコーナーの写真の三点組となっており、鑑賞者は沖縄戦以後の現代史と米軍基地問題の現状とを適宜写真間に代入しながら接することになる。あるいは同じく沖縄で撮影された《辺野古/嘉手納町/伊江島》では、辺野古と嘉手納町に設置されたフェンスの写真と西澤氏が伊江島で遭遇した反基地かかしの写真の三点組となっている。辺野古では抗議活動を支配する共産党の方針によって抗議活動中の死亡案件が相次いでいる(この3月にもありましたが)のに対して伊江島では反基地デモを模したかかし軍団が被写体となっているわけで、そのような二箇所の場所で撮られた写真が並置されることによる落差をこそ見るべきものとなっているのでした。で、かかる落差は、靖國神社遊就館の周りに建てられたモニュメント群の写真や、2019年に行なわれた大嘗祭の際に撮影された大嘗宮の外観と皇居前広場とを並べた写真において、よりポリティカルに再提示される──ポリティカルと言っても、それは既存の政治問題に対する明示的な態度表明ではなく、むしろそれを脱臼させるものとなっていることに注目すべきでしょう。前者の場合、モニュメント群が狭い空地に雑多に建てられることで右派がしばしば口にするアジア解放の大義といった理念がその実一貫性のないアドホックなパッチワークであることが裏側から示されているし、後者の場合、大嘗宮はその仮設性ゆえに天皇制自体の仮設性(←なんだか磯崎新の伊勢神宮論みたいな話ですが)を見る側に印象づけるだろう。
──以上のような写真作品の妙味がさらに濃縮されて提示されていたのが、 展覧会タイトルにもなっている映像作品《世界無名戦士の日》である。埼玉県越生町には「世界無名戦士の墓」なる施設があり、毎年5月に慰霊祭が行なわれているという。その慰霊祭の一部始終を撮影して(沖縄で撮影した「ガマ」の映像などを適宜挟みこみつつ)ダイジェスト化したのがこの《世界無名戦士の日》でという作品ですが、十数分ほどの映像を見ていると、いったい何を見せられているんだ……!? という感慨をついつい抱いてしまうのでした。この世界無名戦士の墓、「特定の宗教宗派に属さない施設」(越生町のサイトより)として作られている施設だけに慰霊祭もそれに則ったフォーマットになっているのですが、それゆえか映像を見ていると終始上滑り感というか虚構感を覚えてしまうわけで。一般論として日本人は無宗教に近いと言ったり言われたりするものですが、無宗教を謳った施設でのかようなイベントに虚構感を覚えてしまうくらいには宗教的存在であると、改めて分からされる。ともかくそんな虚構感の続く中で慰霊祭のラストで青空に花火が打ち上げられ、絵面的に越生町が空爆されたかのように見えてしまう──そのような形で映像の中で虚実が入り乱れてしまう様が描きこまれているわけで、そのようなシークエンスが挟まれているところに西澤氏の批評的な見識が発揮されていると言えるでしょう。
西澤氏は今回の「世界無名戦士の日」展に寄せたステイトメントでこのように述べている。
悲しい記憶があったとしても、ずっと悲しい顔をすることはできない。そこで生きていく人がいる以上、そこを悲しいだけの場所にするわけにはいかない。
たとえどんなに不真面目に見える記念方法になったとしても、適度に忘れ去れるようにしておく必要がある。それでも一度知ってしまった以上は、それがトゲのように刺さって微かに不快にさせ続け、必要なときに取り出せるようになる。
「適度に忘れ去れるようにしておく必要がある」というのは、あらゆる出来事の完全なる記憶も完全なる忘却も不可能な現在における表現の可能性について考える上で、示唆的です。「記念すること」があらゆる国民国家において必須である──それは国民国家が〈想像の共同体〉((C)ベネディクト・アンダーソン)である以上、必然である──ことが言われてひさしいですが、そういった形で「国民=市民」にも「国家」にも回収されえないものがあるとしても、それは「そこを悲しいだけの場所にするわけにはいかない」「適度に忘れ去れるようにしておく必要がある」けど「それがトゲのように刺さって微かに不快にさせ続け、必要なときに取り出せるようになる」という、一見すると陰画的な形で非-在するのかもしれない。そのような非-在を写真間の「辞」として非-指示すること。西澤氏の試みは、私たちをそのような非-実践に開いていると言えるかもしれません。
しかしそれにしても、今回の会場である半兵衛麩五条ビル2F ホールkeiryuは、元禄年間創業を謳う老舗な半兵衛麩の関連施設なのですが、そんな場所がかようにエッジの効いた展覧会を許容しているというのも、京都らしい事態ではあり。畏るべし。
今井祝雄《Voyant》《タイムストーンズ400》について

本町にある本願寺津村別院(通称:北御堂)で2026.3.17〜23に開催のイベント「北御堂芸術祭 あそべばアート」を見てきました。知人が(同時開催の)マルシェに出店していたので顔出しついでに見て回った次第。ですので、このイベントがいつから始まったのかといった詳細についてはよく知らず、北御堂の敷地に入るのも初めてだったわけでして(^_^;

そんな具合に、ほとんど何の予備知識もないまま入ったこの「北御堂芸術祭 あそべばアート」ですが、展覧会場入口に今井祝雄(1946〜)氏の《Voyant》(1988)が設置されてて驚。
ヴォワイヤンとはフランス語で「見る人」のとおり、“見られる像”ではなく、それ自体が何かを“見る像”として、(略)大阪のツイン21を皮切りに各地で人と風景を見てきました。
(傍に置かれた説明板より)
というこの作品、今井氏の等身大の自刻像であり、具体美術協会(以下、「具体」と略)解散後に集中して手がけられたメディア論的な作品のひとつであると、さしあたっては言えるでしょう。「唯一の戦後生まれのメンバー」という、「具体」において特権的な位置を占めている今井氏ですが、それだけに自身の仕事においては「具体」解散後が本番だったわけで──実際、今井氏はしばしば「具体大学」という言い方で、自身にとっての「具体」を端的に表現してまして、「具体」の創設者であり「ええ/あかん」という一言だけで会員の作品を価値判断してきた絶対者でもあった吉原治良(1905〜72)の洗礼を10代〜20代前半で受けまくったわけですから、美大以上のクオリティの美術教育を受けてきたと言っても、あながち揚言ではない。ともあれ、「具体」解散後の今井氏は1960年代後半〜解散までの、いわゆる後期「具体」においてまま見られたメディア論的/オプアート的な作風の影響を受けつつも、それを見る/見られるという二分法の再考へとズラし、音や写真、映像といった〈時間(性)〉にかかわってくるメディウムを多用することで様々に超展開されていくわけですが、この《Voyant》では彫刻/立体を用いることで〈時間(性)〉を古典的な意味での物質と結びつけて、上記の見る/見られるという二分法の再考とつないでいるわけで、1970年代後半〜80年代の今井氏について考える上で、意外と興味深い作品となっているのでした。この作品の頃の今井氏は41〜42歳で、年相応な顔つき身体つきをしているのですが、今井氏というより真っ黄色に塗られたひらパー兄さんと言った方が適当なような……←←


この展覧会では今井氏絡みの展示がもうひとつありました──「タイムストーンズ400再創造プロジェクト タイムストーンズを考える会」(以下「考える会」と略)なる団体による展示コーナーがそれ。1985年の大阪城築城400年を前に、1982年にJR新大阪駅前広場に設置されたこの《タイムストーンズ400》、豊臣秀吉による大阪城築城のために小豆島で切り出されたものの島内でずっと放置されてきた「残念石」が大阪城築城400年記念イベントの一環として大阪まで運ばれ、大阪城天守閣の近くに安置されたという案件と連動する形で、残念石を元にモデリングした石材を縦に20個積み上げ、残り一個を傍に置いて20年後(2002)に積み上げることで完成することがもくろまれていたのですが、制作から44年経った今でも21個目は積まれず、その意味では未完のままあり続けている。で、経年劣化や、将来予定されている北陸新幹線やリニア中央新幹線の乗り入れにともなう新大阪駅周辺の再開発のために、そのうち存続の危機を迎えるかもしれない──という問題意識のもとに活動しているのが、この「考える会」である、という。
《タイムストーンズ400》については、大阪大学の有志たちが2022年に一度取り上げ、附属博物館で展覧会を企画していたことがあります。「考える会」がこのときの阪大有志たちと関係あるのかどうかは知りませんが*1、阪大での展覧会では今井氏が具体美術協会解散後にあちこちで手がけたパブリックアートも視野に入れつつ、「文字通り400年の時間を積上げたものとしたい」「ひとつの情報彫刻」(←いずれも当時の今井氏によるステイトメントより)を意図して作られた《タイムストーンズ400》が〈パブリック〉といかに交差したか/しなかったかに焦点が当たっていました。一方、「考える会」については、今回は顔見世興行というか、こういう活動もあることだけ覚えてくださいという自己紹介が最優先されていた感がありますが、今後どのように活動が展開されていくのかは未知数なれど、「傍らにある21個目の石材を乗せて完成させる」のが正しいのか「このまま未完のまま放置する」のが正しいのか決断するときがそのうちやって来るであろうことは容易に想像できるわけで(もちろん、そのはるか手前で「考える会」が活動終了を迎えることも十分ありうるのだが、ここでは措く)。



仄聞するところでは《タイムストーンズ400》は大阪北ライオンズクラブが設立20周年を記念して、当時様々に行なわれていた「大阪21世紀計画」の一環として行なったのですが、現在の管理者や土地所有者が分からない状態にあるそうで、それゆえ
街に放置された作品は誰のものなのか。管理者は不要なのか。パブリックアートそのものに対して問いを投げかける作品でもあります。
という評価(評価?)がなされるに至っている*2。このあたりについては今井氏のパブリックアート論も参照しつつ考察していくのが筋なのでしょうけど、当方はよく分からない(爆)。しかし、「具体」解散後の今井氏の仕事が〈時間(性)〉にかかわってくるメディウムを多用していたことを考慮すると、〈時間(性)〉の最たるものである歴史的時間という観点から見ることが重要であることは、疑いないでしょう。
そのような角度から見たときに気になるのは、この作品に至る出来事のひとつとして小豆島に放置されていた残念石が大阪に運びこまれたというイベントがあったことでして。一般論として、当時未完であった事象を、あるいは現在においては失われたものごとを、現代において現代の価値基準のもとに復元・完成・完結させることは、現在においては割と「あかん」ことに属すると思われます。そうすると、小豆島に400年間放置されていた残念石は引き続き放置するのが正しいはずなのですが、その「あかん」ことをこのときの大阪21世紀計画は全体としてノリノリでやってたわけで(当時の歴史学者たちがこのあたりについてどういう反応を示していたのやら……)。まぁそれを言い出すと、そもそも戦前にいきなり大阪城天守閣を鉄筋コンクリートで「復元」してしまったことにも「あかん」感が漂ってくるところではあるのですが。大阪という場はどうも歴史的時間に対する態度がちょっとズレてるというか、少なくとも保存して良しとする態度を自体をいきなり相対化してしまうところがあり(守っているところは守っている(住友とか)けど)、その意味で「パブリックアートそのものに対して問いを投げかける」というのは、大阪という場の歴史的時間に対するあり方/ありよう──〈パブリック〉とは、それ以外ではない──に対する問いでもあると、いささか強引に読み換えることが《タイムストーンズ400》については重要であろう。そのようなことを考えさせられたのでした。