みヅゑ…

流転の好事家あたしかの公開備忘録

「天覧美術」展

 KUNST ARZTで5月22〜31日に開催された「天覧美術」展。出展作家は岡本光博氏(兼キュレーター)、木村了子女史、小泉明郎氏、鴫剛氏、藤井健仁氏の五名。KUNST ARZTはこれまで「フクシマ美術」や「ウォーホル美術」など「〇〇美術」というタイトルでのグループ展を定期的に開催してきており、それによって〈(現代)美術〉の拡張を企図しておりますが、今回はかようなプラットフォーム上に(よりにもよってと言うべきか?)〈天皇制〉を乗せているということで、開催前から話題になっていたようです。

 

 出展作について順に説明します。キュレーターも兼任している岡本光博氏は鳥籠の中に鳥のようなオブジェと小さな写真を入れた作品が二点と信楽焼のたぬきの写真が焼き付けられた陶片を金継ぎしてたぬきのキ○タマを模した陶作品、あとドミニク・アングル《泉》の乳房の部分を菊の御紋があしらわれた銀杯にすり替えた作品も出展していました。鳥籠の作品はカナリア的存在としてのアーティスト(実際、うち一点の写真には昨年の「表現の不自由 その後」展を大炎上させた主要因となったあの慰安婦像と岡本氏が向き合っていました)を、陶作品は「継ぐ」という言葉を介して、日本社会以上に少子高齢化に直面し世継ぎの面で問題を抱え続けている皇室を、それぞれ俎上に載せていると考えられます。岡本氏は定期的に作品が物議を醸していることで知られており、上記の「表現の不自由 その後」展の出展作家でもあったわけですが(管見の限り、同展では(慰安婦像や大浦信行氏の作品のようには)直接的に作品が指弾されることはなかったようですが)、岡本氏特有の、象徴性をめぐるアレゴリーをダジャレや言葉遊びで(フロイトが言う、「現実」の反対としての)「戯れ」の中に落としていく手法を〈天皇制〉相手にも行なっていたと言えるでしょう。

 

 木村了子女史はイケメン男性を日本画の技法で描くことで、美人画ならぬイケメン画(?)の第一人者となっていることで知られています。今回は上皇を彼女お得意のイケメン画として描いた絵画と、菊の御紋と「菊」つながりでassholeを晒した人物画──といっても大和絵や土佐派のような流麗な描線で描かれているので、そこまでエログロではない──が版画と掛軸で出ていました。今回の出展作家の中で最も真正面から〈天皇制〉を、というか「描かれた天皇制」を、描くことで再考している印象。「天皇」と「エログロ」とを直接的に対置することは、その意図や結果はどうあれ、日本の、特にサブカルチュアにおいてひとつの伝統技法と化しているものですが、それを──創られた伝統((C)エリック・ホブズボーム)としての──日本画の技法で行なうという形を取っているわけですから、「描かれた天皇制」、そして「天皇制を描くこと」を主題にする上でとても理に適っている。もちろん作品のクオリティの高さについては、言うまでもない。

 

 小泉明郎氏が出展したのは過去作の映像作品二点。ひとつは小泉氏自身が(?)パンキッシュなジャパノイズミュージックにアレンジされた「蛍の光」に乗せて鉛筆で紙の上で殴り描き(というかもはや「殴っている」と言った方が良いかも)している3分足らずの映像。もうひとつは1990年の即位例の際のNHKの中継からぶっこ抜かれた音声と、『仮面ライダー』内におけるショッカーによって市井の人々が殺されるといった不穏なシークエンスとを極悪マッシュアップした12〜13分ほどの映像(個人的には自衛隊が撃った礼砲の音とショッカー怪人が爆死するシーンとがマッシュアップされていたところに笑)。二つ合わせて15分ほどの映像でしたが、「蛍の光」は昭和天皇が皇太子時代に行なった欧州外遊を回顧した際に思い出深い一曲としてあげていたことや、あるいは2000年の『仮面ライダークウガ』以後2018〜19年の『仮面ライダージオウ』に至るまでの仮面ライダーがいつの間にか「平成ライダー」と呼ばれ、そこから遡及的に最初期の仮面ライダーたちが「昭和ライダー」と呼ばれている──つまり現代日本において元号を冠して呼ばれるのは今や(明治以後の)天皇仮面ライダーくらいであるわけです──ことを勘案すると、小泉氏がどこまで狙っていたかは分かりませんが、かかる作品外の事実込みでクリティカルだなぁと思うことしきりでした。

 

 鴫剛氏の出展作は絵画が二点。ひとつは桜色に染められた国会議事堂が、もうひとつはヘリコプターがモティーフとなっています。1970年代に波や集合住宅を細密に描いた絵画作品によって日本におけるスーパーリアリズムの旗手ないし第一人者となっていることで知られる鴫氏ですが、それだけに今回の「天覧美術」展の出展作家の中でも立ち位置的にひとりだけ異質というか〈天皇制〉をテーマにした展覧会にどのような作品を出してくるか事前に予想できなかったわけで。そういう視線から実際の出展作に接してみると、モティーフもさることながら描き方の面においても見る側に政治性への注意を喚起させるものとなっており、鴫氏の別の側面を堪能できる機会となりました。とりわけヘリコプターをモティーフとした鉛筆画は全体的にボケた感じに描かれており、ヘリコプターそれ自体よりもむしろヘリコプターの影をスーパーリアルに描いたような印象を受けるものとなっていますが、そのことによって(憲法9条によって不可視化された)軍事的なものを、さらに言えば米軍が使用しているタイプのヘリコプターを描いていることで「アメリカの影」((C)加藤典洋)をも見る側に敷衍することを求めているようにも見えたのでした。

 

 藤井健仁氏は一貫して鉄を鍛造して人物や猫、謎の生物などをモティーフにしたフィギュア的彫刻作品を作り続けていることで知られています。今回の出展作は以前に手掛けていた「彫刻刑・鉄面皮」シリーズから昭和天皇麻原彰晃をモティーフにした作品と、こちらも鉄を素材にしたほぼゴルフボール大(さらに小さいものもあり)の昭和天皇の頭像数点。特に麻原彰晃をモティーフにした《SA》は──『終わりなき日常を生きろ』で地下鉄サリン事件(1995)後の論壇のトレンドセッターとなった──社会学者の宮台真司氏が購入し所蔵していることでも有名ですが、今回関西では初公開とのことで、個人的にはこれがかの有名な…… とガン見しきり。今回は昭和天皇の(等身大以上の)鉄面皮と並べられることで、〈天皇制〉とそれをモデルにした擬似国家的な組織を志向していたオウム真理教とを極端な対比のもとに置いていたわけで、作品自体もさることながらチョイスがなかなかおそろしい。一方、小さい昭和天皇像はその小ささにおいて人間宣言後の天皇の暗喩として(確か大塚英志氏だったかが「かわいい」の一言で戦後の天皇制のありようを説明していました)あるように見えまして、見ようによっては鉄面皮シリーズ以上に天皇制の本質を撃ち抜きうる射程を秘めたものとなっている。

 

 ──作品については以上ですが、この「天覧美術」展の英語タイトルが「Art with Emperor」であることは、同展について考える上で非常に重要なファクターであるように、個人的には思われます。「of」でも「for」でもなく、ましてや「against」でもないわけで、このあたりの、キュレーターとしての岡本氏のバランス感覚は、それ自体として注目すべきことであるように思われます。

 

 

 この展覧会については、関西屈指の美術ジャーナリストとして知られる小吹隆文氏がtwitter上で「極端に偏向していて」「とても不愉快だった」と発言したことが関西において物議を醸していた様子ですが、しかしながら先に触れたように「with」によって「Art」と「Emperor」を対置することによって、双方との間にディスタンスを設定することがキュレーションを通して目指されていたのだとすると、この「偏向」は、〈天皇制〉を美術によって俎上に乗せるに際して、それ自体として必要であったと言わなければならないでしょう。美術が〈天皇制〉に対してなしうることは、偏向によってディスタンスを設定し、そのことによって思考可能なものとして対象化することである。そうする形で複数の視点/焦点を確保する(ここでおそらく花田清輝の「楕円」を思い起こしておくことが必要かもしれません)。この感覚を忘れたとき──つまり、例えばこの展覧会が「Art against Emperor」展とかだったとき──視点/焦点は再び一元化され、〈天皇制〉はシステムとして再生産されてしまうことになるだろう。岡本氏自身や小泉氏といった、「表現の不自由・その後」展の出展作家も(部分的に)招きつつ、同展が陥っていた一元化と違ったルールを設定しようというのが「天覧美術」展の試みであったわけで、それが上手くいっているかどうかについては議論の余地はあるでしょうけど、現時点においてかなり高い水準でなされていたことは事実でしょう。

 

 なおこの展覧会は6月2日から東京のeitoeikoに巡回しています(〜6.20)。さすがに東京に見に行く金銭的・時間的余裕はないのですが、首都においてこれらの作品がどのようなコンテクストのもとに受け止められることになるのかは気になるところです。