当方的2020年展覧会ベスト10
年末なので、当方が今年見に行った402(コロナ禍のせいで昨年から比べるとかなり減りましたが……)の展覧会の中から、個人的に良かった展覧会を10選んでみました。例によって順不同です。
・「ヤン・ヴォー ーォヴ・ンヤ」展(6.4〜10.11 国立国際美術館)
ベトナムに生まれるも幼少期に家族で脱出し、その後欧州で育って現代美術家となったという経歴を持つヤン・ヴォー(1975〜)。そんな彼の日本初個展となったこの展覧会は、以上のような彼の来歴に決定的な影響を与えたベトナム戦争にまつわる文物を集めて再配置するものだったが、文物の貴重さ──「休戦協定が調印されたパリのホテルにあった巨大シャンデリア」や「(当時の米国務長官だった)ロバート・マクナマラやヘンリー・キッシンジャーの直筆メモ」など、そんなのよく手に入ったなぁと呆然とすることしかもはやできなかったもので──もさることながら、それらを再配置したり父親の作品を間に挟んだりすることで、自身の来歴を現代史に接続させる手腕が非常に巧みであった。非欧米圏の美術家が自身の来歴を制作によって提示すること(それはしばしば「ポストコロニアリズム」という動向のもとに語られる)の極大値であり、文物同士の関係性を自由自在に操作することで多面的な歴史のナラティヴを実現させているという点において、様々なイズムに対する抵抗ともなっていたわけで、きわめて稀有な鑑賞体験となった。
・岡崎乾二郎「視覚のカイソウ」展(2019.11.23〜2020.2.24 豊田市美術館)
1980年代にデビューして以来、絵画や彫刻といった様々なジャンルを飛び越えて重要な仕事を制作し続けてきた岡﨑乾二郎(1955〜)氏の初期作品から最新作に至るまでを一望できる貴重な機会となった。とかくなるほどさっぱりわからん感が先立ちがちな岡﨑氏の作品だが、配置の仕方に工夫を凝らしたり──とりわけ長いタイトルの絵画作品シリーズと初期の代表作となる《あかさかみつけ》シリーズとを隣接させていたのは、ポイント高──、キャプションに説明を多めにつけたりと、氏の展覧会の中でも割と教育的(?)配慮がなされていたのだが、それらと作品とを両睨みにすることで、とっつきにくさが先立つように見える岡﨑氏の作品がチャーミングな側面すら含んでいることを体感できた次第。無論これで氏の仕事の全貌を見切ったとは間違っても言えないのだが、少なくとも後世の未知なる観者にも開かれる機会となったことは、間違いあるまい。
・「坂田一男 捲土重来」展(2.18〜3.22 岡山県立美術館)
──そんな岡﨑乾二郎氏の監修のもと、岡山出身で1920〜30年代に渡仏していた以外はほぼ岡山県内で活動していた坂田一男(1889〜1956)の画業を通観するという趣で開催されていたのがこの展覧会。岡﨑氏は以前豊田市美術館で「抽象の力」展を開催し、1920〜30年代ヨーロッパにおける抽象芸術の同時多発的な展開を物質が知覚を超えてダイレクトに精神に働きかける力の追求と(再)定義していたが、「抽象の力」展が〈抽象の力 接触編〉とすると、フランスでフェルナン・レジェに師事しつつピカソやモンドリアンなどと交流を結んだ(そして帰国後も岡山においてひとり世界の巻き直し=捲土重来(=革命?)を画業において探究していった)という坂田にクローズアップしつつその仕事を彼らとの対質において追っていった「坂田一男 捲土重来」展はさながら〈抽象の力 発動編〉というべきか。いずれにしても、1920〜30年代ヨーロッパにおける抽象芸術の同時多発的な展開に対して同時代の日本人美術家たちはその理解度において意外といい線行っていたという岡﨑氏の所説が坂田の作品によって説得力をもって観者に差し出されていて、見応えがありすぎる。
・「天覧美術」展(6.2〜12 KUNST ARZT)
※出展作家:岡本光博(兼キュレーター)、木村了子、小泉明郎、鴫剛、藤井健仁
詳細はこちらを参照されたいが、岡本光博氏が定期的に開催している「◯◯美術」シリーズがついにというべきか「天皇制」を俎上に乗せたことで関西では開催前から話題になっていたもの。とは言え天皇ないし天皇制それ自体を真っ向から政治的に俎上に乗せるのではなく、「描かれた天皇(制)」という側面が前面に押し出されているところに、岡本氏の絶妙なバランス感覚が存在していたのもまた、事実と言えば事実。そうすることによって、「天皇制」に対する別種の視座を遂行的に構築する、その端緒が垣間見えていたわけで(この展覧会の英語タイトルが「Art with Emperor」なのは、「with」という言葉が醸し出す微妙などっちつかず感もあって、なかなかに示唆的であろう)、その点にも要注目である。個人的には宮台真司氏が所蔵していることで知られる藤井健仁氏の作品(画像参照)を実際に見られたことがなかなか収穫だったものだが、他の出展作家も見ようによってはクリティカルな作品を多く出展しており、展覧会自体が異様な空気感を持っていたという点ではここ数年の中でもトップクラスであった。
・加賀城健展(9.19〜27 祇をん小西)
詳細はこちらを参照されたいが、染料が自然に布に染み込んでいった様子自体を作品化した新作の《Shimmering》シリーズが個人的にクリティカルヒット。日本においてはともするとメディウムや技巧の独自性や卓越性が自己目的化してしまうきらいのある現代工芸だが、そういった現代工芸の美質を損なうことなく思想やコンセプト(をめぐる諸問題)を直接的に俎上に乗せ、思考の位相における達成を見せていた──この展覧会においては「表現」と「無意識」との関係性をめぐる問いと考察が(加賀城氏が意図していたかどうかはさておき)露呈していたのだった──という点において、現代工芸からのファインアートへの越境という課題に対するハイレヴェルな回答となっていたわけで、それなりの期間にわたって加賀城氏の作品に接してきた者としても改めて刮目して見る機会となった。
・野中梓展(10.5〜10 Oギャラリーeyes)
近年、光と、光によるモティーフの表層の揺らぎを描くという方向に大きく舵を切っている野中梓女史だが、迎えた今年の個展では、その姿勢がさらに前面に出つつ、画面の方はますます禁欲的になっているわけで、一見すると茫洋かつ曖昧模糊とした表面を見せながらも、そこに描かれた時間の流れや作者と観者の知覚のうつろい、それらを描く/媒介するメディウムとして醸し出されてくる絵具の物質性などが渾然となっていて、いったん引き込まれるとすっかり見入ってしまう作品となっていた。ことに「ツルッとした冷蔵庫の表面に当たった弱い光」をモティーフにした小品(画像参照)は近年の野中女史におけるかかる絵画的動向の全てがガンギマリ状態になっていて、これはもう圧勝だなとおもうことしきり。この良さが分かるようになった己が眼を褒めたいと唸ることしか、もはやできないのだった。
・HUB IBARAKI ART PROJECT 2020(3.28〜9.13(途中中断期間あり) 茨木市各所)
※選出作家:永井寿郎
※チーフディレクター:山中俊広
写真家の永井寿郎氏を選出し「パブリックとプライベートの境界を考える」というテーマのもと、氏が茨木市各地に赴いて道路や私有地にドローイングを描いて撮影するという形で進行していった今年のHUB IBARAKI ART PROJECT。昨年に続いて「アートと公共性」という問題系に直接切り込んでいたのだが、以上のような行為を所有者との交渉を経た上で全て「合法的に」行なうことで、作品やパフォーマンスが行なわれる場自体がパブリックとプライベートがまだら状になっていることを明るみに出していたことになり、アート(あるいはより広く、人間の営み全般)と公共性との関係性をモデリングする上で非常に慧眼であったと言えるだろう。折からのコロナ禍によって人々の「プライベート」が「パブリック」へと裏返され、直接的な政治的統治(「三密を避けよう」とか)や経済的開発(「Go To トラベル」とか)の対象となったさなかに開催されたことにも要注目。数あるアートプロジェクトの中でも、現実の事象や推移とここまで「「「過剰にシンクロしてしまった」」」ものは、後にも先にもなかなかあるまい。
・「もうひとつの日本美術史──近現代版画の名作2020」展(9.19〜11.23 和歌山県立近代美術館)
明治時代以後現代に至る日本の版画史を通史として紹介するというこの展覧会、いかに個別性の高いジャンルであっても「通史」として展示すること自体近年ますます難しくなってきている中にあって例外的に蛮勇が振るわれた展覧会であったと言えるだろう。これは学芸員たちの功を素直に讃えるべき。日本において版画というと、かつて現代美術として一世を風靡していた時代があった…と過去形で語られて久しいのだが、この展覧会においては明治以後の版画をめぐる諸動向を丁寧に展示して関係づけることで、版画が絵画でも商業印刷でもない独自のアイデンティティを確立しようとしていく過程と、それが一定の達成を見せて1960年代の「版画ブーム」に結実し、そこからゆるやかに拡散していく──井田照一(1942〜2006)が「版画はその頃、芸術でも反芸術でもなかった」と発言していたことが思い出される──過程とが作品を通じて語られていたわけで、版画について不勉強な者としても美術史における巨大なミッシングリンクの一端に触れられる良い機会となった。
・今道由教展(7.13〜18 Oギャラリーeyes)
詳細はこちらを参照されたいが、1990年代からミニマリズムのフォーマットにのっとりつつ、主に平面において独自の考察を続けている今道由教(1967〜)氏、近年はこのOギャラリーeyesでの個展がその考察の経過発表の場となっているのだが、今年はトレーシングペーパーに縞模様を(模様を構成する二色を表と裏に分離して)印刷し折っていくという小品が中心だった。「絵画における視覚的な図像と物質的な支持体との関係に着目し、支持体としての紙の両面性を活かしながら、支持体そのものへ物理的に働きかけることから生まれる表現を探って」いると作者自身が語っている通りの作品だったわけだが、半透明の紙を支持体に用い、表と裏というファクターを巧みに導入することで、絵画空間のようなものをこれまで以上にリテラルに作り出していたわけで、これまでの考察からさらに大きく飛躍していたことに瞠目しきり。
・新平誠洙「PAINKILLER」展(12.11〜20 KUNST ARZT)
instagramにアップロードされている絵画の画像を具象・抽象・イラストレーションの別なく適当にチョイスし、それをモティーフにして改めて描いた絵画作品が出展されていた(画像参照)が、そのような手法を取ることによって自身のオリジナリティに縛られがちな自身を相対化することが企図されており、それとは違った絵画のあり方/ありようを模索していたわけで、その意味で「PAINKILLER」という展覧会タイトルは言い得て妙であると言えよう。ところで、当たり前のことながら、instagramからチョイスされた作品は正方形となっているのだが、多くの画像においては絵画の全景が収まっておらず部分的に切られた状態になっており、そこになにがしかの暴力の痕跡が見えているのが興味深かった。絵画における正方形というサイズは昔からあるのだが、instagramの正方形はそれとは異質であることをどこかで予感させるものとなっており、ともすると流通する画像の量に注目が行きがちなinstagram論に対する介入としても、きわめてアクチュアルかつクリティカルであった。