みヅゑ…

流転の好事家あたしかの公開備忘録

【資料】たに あらた「焼かれた言葉 あるいは 遠藤がエクスタシーを感じるとき」(1993)

 

 遠藤利克の新しい志向は、とてもエロティックなものだ。性愛的にではなく、観念的にそうなのである。

 

 登場する対象は「書物」(言葉をもった器)。この意味の堆積物あるいは意味のメタファーそのものであるオブジェは、遠藤がアイデンティティーを交わしてきた元素のひとつ〈火〉によって焼き尽くされる。いや、正確にはすべてが焼き尽くされるのではなく、半焼き(生焼き)にされるのである。

 

 考えようによってはきわめて残酷なものでもある。無用な意味は焼き尽くされてしまったほうがよい。だが、無用という価値判断ほどじつは残酷なものでもなく、無用なものによってはじめて意味は有用性を帯びる。そうなれば、有用はとりあえず無用の存在によって有用になり、無用はある有用性のためにとりあえず無用の役割に甘んじていることになる。いわば“有用/無用の意味の交換”がこの世界の節理でもある。

 

 だが、この交換関係をオーソドックスに是認してしまうのであれば、遠藤の作品行為は“立たない”。彼の言葉で言えば「感覚としての垂直性」が得られないということになる。〈火〉は、変遷し否定され塗り変わっていくという意味の歴史をかなぐり捨て、意味をもっとも見えるかたちにおいて否定するときの手段として使われる。“焚書”がその端的な例だろう。それはもっとも暴力的な手段である。意味をもうひとつの意味によってではなく、外的な暴力によって焼尽しようとすること。その行為の是非は多くの論議を呼ぶところだ。大半は、この行為について無意味であるとする。確かにそうだろう。

 

 しかし、遠藤はそこに“エクスタシー”を感じてしまう。意味に無類の外的な力が働いて、意味の平均的変動の歴史的コンテキストが揺らいでしまうこと。関係の直接性あるいは遠藤流に言う“感覚の垂直性”は、以上のようなある種“非民主的手続き”によって生誕する。愚昧な意味の交換関係よりは直立する意志のほうがより優れる、と彼の作品は語っているようだ。

 

 その例は今回の出品作の直前の作品が暗示している(タイトル──「Two Walls」、ギャラリー・ヤマグチ個展)。この倉庫をギャラリーに変えた空間は狭いが心地よい。ここに遠藤は平行して立ち上がる木の壁をつくった。百ピースくらいの角材を積み上げてつくった壁で、高さは3m50cmある。「EPITAPH」(1990年)の3mを凌ぐこれまででもっとも高いものである。床に立つとき、当然その上辺は望めない。並立する壁のあいだに立つと圧迫されるような迫力がある。やや古いが崇高な精神性を感じさせるかもしれない。

 

 あのタール特有の臭気に包まれることもない。この作品で初めて遠藤はタールによるコーティングを止めた。代わりにアクリル系塗料によるコーティングをおこなっている。タールによる物質性は後退した代わりに、炭の光沢がいっそう強まり、肌合いが美しく見える。

 

 これは従来の作品とどのように関係づけられるのだろうか。手がかりは多く残されている。ひとつはビーカーの水という直接過去の作品を想起させるものであり、他は焼いた壁が示しているコノテーションである。前者を補足すれば、それは「水蝕III」(1978年)にさかのぼりうる。このとき遠藤は床よりもやや高い位置に水を湛えたビーカーを置いた。このときのモティーフはもとより水である。だが、このビーカーの置かれている位置関係を展示空間もろともに問題にする眼は存在しなかった。それを彼は今に実現しようとしている。「Two Walls」の平行して立脚している壁は、いわば画廊の壁のあい対する面が前進したスタイルである。「水蝕III」のときのビーカーの位置がそうであるように、「Two Walls」のビーカーは壁の下部(床から約30cm)、端のほうに置かれ、相互に回転対称になっている。もっとも新しい作品のそれは強化ガラスでできた高さ50cmもある特製のビーカーで、壁の強度と呼応している。遠藤の水は物質としての水を感じさせないメタフォリカルな世界にも向かうが、ここではじゅうぶんに存在感がある。

 

 作品としてはすでに言いたいことはすべてこれで言いきれていよう。だが、この作品はもうひとつの強い欲望によって裏打ちされている。焼かれた壁の立脚。すなわちそれは画廊空間を焼き尽くすことのシーニュである。床も壁も天井も焼くこと。この危険な想念の存在があってこの作品はよりリアルになる。だから意味は過去の作品から派生し、大きくそれに内包されているかに見えて、多くの分量を壁の彼方へと向かわせる。そしてこれらの行為が予測させる不可能性と向き合うとき、遠藤が無制限のエクスタシーを感じるのは言うまでもない。

 

 このひそみにならえば、新作(タイトル──「敷物─焼かれた言葉」)は、床を覚醒させる彼にとっての新たなチャレンジである。1980年代の遠藤の作品は、垂直はもとより水平を意識させる作品も多々ある。しかし、それらは円環など形態に由来するイメージが圧倒的に強い。ミニマルな形態に由来すると言ってもよい。今回の展示も矩形などのある作品としてのまとまりは実現されるだろう。しかし、それは従来の作品のような意味は担わない。視覚への形態的還元よりももっと書物(言葉=意味)を焼くという行為が重い複雑な意味を担うのであり、さらに書物(記述されたオブジェ)を“敷物”として扱うという暴力的行為によって床を意味(想念)の含有物に組み換える。作品を展示することが日常である画廊の床が、これほど多くの不確定で重い意味によって漂うこともないだろう。言うまでもなく、それも遠藤のエクスタシーを代弁するのである。

 

 書物。この扱いづらいオブジェを遠藤は約2,000冊用意した。これを二段重ねにして展示するだろう。書物の内容は美術に関するものではない。意味をもられた器としての対象一般が彼にとっては問題だからだ。しかし、たとえそうであっても、今回の作品行為が問題になることは間違いない。遠藤利克の有力なモティーフである“火”と“癒しの水”の転形譜は、木や鉄といった素材の領域をはみでる意味を担った対象の介入によって美術内タームを超えた新たな挑戦と対決を強めざるをえないだろう。(美術評論家

 

 ※1993.9.13〜25にギャラリー白で開催された遠藤利克氏の個展に際して発表された。