みヅゑ…

流転の好事家あたしかの公開備忘録

本山ゆかり「称号のはなし」展

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 左京区浄土寺にあるFINCH ARTSで昨年12月20日〜今年1月19日に開催の本山ゆかり「称号のはなし」展。ここ数年、京都を中心に個展やグループ展を精力的に続けている本山ゆかり(1992〜)女史の、同ギャラリーでは初めてとなる個展。

 

 本山女史といいますと、透明なアクリル板に白い絵の具を雑に塗った下地に、さらに雑な──「「あたかも子供の落書きのような」という形容が非常にピッタリくるような」というべきでしょうか──ドローイングを施した平面作品で注目を集めていますが、今回の出展作は二枚の異なる色の布を継ぎ合わせて裏地に綿を打ち、そこにミシンの縫い目によって花の絵を施すという、これまでとは全く異なる傾向の平面でも立体でもあるような作品(画像参照)。本山女史いわく、これまでのシリーズとは別の作風のシリーズをもう一つ作りたかったからかような作品をものすようになったとのことですが(実際、かような作風は今回が初めてではなく、昨年Gallery @ KCUAで開催された「京芸Transmit Program 2019」( http://gallery.kcua.ac.jp/exhibitions/20190413_id=17395#ja )に選定された際にも出していたという)、実際に作品に接してみると、そのような内的動機に単純に還元できない形で批評的/危機的にエッジの効いたものとなっているように個人的には思うことしきりでした。

 

 それは、今回の出展作品が様々な点において「絵画」を逸脱したものとして提示されているところに、如実に現われている。上述したように、布を、それもカンヴァスに類するようなものではなく、サテン地の、服飾によく使われるであろうと見る側に認識させるような生地を支持体に、二色の生地をつなぎ合わせることで作られた下地にミシンの縫い目によって花の絵を描くというのが今回の本山女史の出展作だったわけですが、かかる作品のありようは、通常の絵画ないし平面のありようを、一見して判別できるレベルにおいても斜めに逸脱しようとしていると、さしあたっては言えるでしょう──絵具を一切用いていないという点において、これは絵画というよりもテキスタイルであるし、綿を打っていることでペシャンコになった座布団という相貌を見せている点において、これは単なる平面というより立体でもあるし。さらに言えば、下地がたわんだ形で壁に掛かっていたことも、下地が下地であることを露わにしていたという点において「絵画」からの逸脱を指向している一例とみなすことができる。そのような形で、今回の出展作は、作り方のみならず、その展示のされ方という位相においてもまた、いくつかの既成のジャンルに還元できないものとして提示されているわけですね。その意味で、この展覧会はまさに「称号」をめぐっている。


 ところで今回の「称号のはなし」展については、インディペンデントキュレーターの長谷川新氏が展評を寄稿しております( http://haps-kyoto.com/haps-press/exhibition_review/2019_10/ )。《何年前だったか、今をときめく新進気鋭の若手作家に「僕たちはもう”レイヤー”とかじゃないんですよ!(大意)」と言い放たれたことがあ》るという経験を出発点に、「レイヤーlayer」という言葉が持つ積層された垂直性のイメージを強く喚起させる語が特権的なマジックワードとなって語られてきたここ十数年の日本におけるある種の絵画論のモード──そこでは積層する諸層/諸相を一元的に貫くベクトルの強度が作品の強度とされることになる(スーパーフラット!)──を横目に見つつ、しかし作品内における《弛緩した緊張感》を肯定すること、《より一挙に、絵画をやっている》ことと《任意の線が三次元空間に引かれてしまっていることそれ自体の歪さを、素直に肯定してくれている》こととにフォーカスすることが本山女史の絵画を見る際には重要なのではないかという長谷川氏の指摘は、彼女の作品を見る上で何か重要なヒントを提供していると考えられます。実際、彼女の今回の出展作においてより顕著になっているのは、──二色の下地が交わることなく並行して縫い合わされているという点に最もよく現われているように──諸相がレイヤー状に積み重なっていくというよりも、むしろ水平に薄く広がっていくような感覚である。もちろん単純に垂直/水平という二元論に還元することはできないのですが、「縫う」という行為を制作の主軸としている本山女史の今回の出展作においては、かような二元論をも(またしても)斜めに逸脱することが試行されていることは間違いないでしょう。