みヅゑ…

流転の好事家あたしかの公開備忘録

今道由教展(2020)

 西天満にあるOギャラリーeyesで7月13〜18日に開催の今道由教展を見てきました。今道由教(1967〜)氏は1990年代から作家活動を続けていますが、近年は天神祭(今年は中止になりましたが……)の時期にこのOギャラリーeyesで個展を行なうことがなかば恒例化している。当方は2015年の個展で初めて今道氏の作品に接して以来毎年見に行っておりまして、今年も無事、氏の新作を見ることができた次第。

 

 《絵画における視覚的な図像と物質的な支持体との関係に着目し、支持体となる紙の両面性を活かしながら、支持体そのものへ物理的に働きかけることから生まれる表現を探っています》(プレスリリースより)──今道氏自身がこのように語っている通り、Oギャラリーeyesでの個展においては、例えば紙の表面と裏面をそれぞれ違った色で塗ったあと切り込みを入れて折り返すという作品や、紙をフリーハンドで裂いては折り曲げることを繰り返してできる不定形の両面に異なる色彩を施した作品、あるいは両面を違った色のポスターカラーで塗り、濡らしながらクシャクシャにする──ポスターカラーに耐水性はないため、二つの色はプロセスの中で混ざり合うことになる──作品など、様々な手段によって「支持体そのものへ物理的に働きかけることから生まれる表現」を探究してきておりますが、迎えた今回はトレーシングペーパーにストライプ柄を印刷し、折り紙の要領で折り返していくという作品が中心でした。

 

 先ほどいくつか例示したように、紙の両面を、というか、紙という支持体の両面性を生かして、表と裏が相互反転的な様相を呈するように作られているところに今道氏の作品の眼目があるのですが、今回の出展作の場合、ストライプ柄を構成する二色がそれぞれトレーシングペーパーの表と裏に分けて刷られています。従って私たちが表面上における出来事としてとらえるのは実際には表面と裏面に分割された形で制作されているわけです。そのように作られた紙が折り返されることで表/裏という要素が混濁され、幾何学模様は単なる表層的な色面ではなく、一種の奥行きをともなって立ち現われてくるようにしつらえられている《1色ごとに作成したストライプ・パターンを表面と裏面に分けてプリントすることで、表裏のそれぞれの色帯が互いに透過して縞模様が形成されるようにしました。この用紙を図柄が水平・垂直や直角につながるように内外に折り返していくと、表面と裏面が入れ替わりながら屈曲した色帯が幾何学的な図像を作ったり、折り込まれた内側の色帯の重なりが幾何学模様を浮かび上がらせたりします》(プレスリリースより)。


 一見すると表面における出来事として現われてくるパターンがしかし表面と裏面にいったん分離され、トレーシングペーパーという支持体の特性によって事後的に統合された形で作られており、その支持体自体を折り重ねて制作することによって支持体/表面という二分法とは違った形で平面を経験する──ここ数年の今道氏の作品はこのような志向性を強く帯びていることから、1970年代のフランスにおいてブームとなったシュポール/シュルファス(support/surface)とある程度連関していると考えられます。絵画/平面を支持体(シュポール)と表面(シュルファス)との両端からなるものと定義した上で改めてこの双方をつなぎ直すという論理構成によって作品を制作することがシュポール/シュルファスにおいては目指されることになり、従って「描くこと」はパラメータ化された両端を事後的に再統合していく行為と再定義されることになるのですが、しかし今道氏の(少なくとも近年の)作品においては、支持体に直接的に手を加えることが、描かれるモティーフや色彩なしに遠近法的な空間を作ることと深くかかわっていた──この意味において、今道氏の行為は(絵画について語る際に私たちがなんの気なく濫用する)〈絵画空間〉を、トレーシングペーパーを用いてヴァーチュアル(仮想-実効的)に作り出していると考えられます──という点において、いわば「シュルファスなきシュポール」というべき独特の位相を思考/志向していたと言えるでしょう。それがどのような射程を遂行的に開示することになるか(例えば「絵画」/「彫刻・立体」という二分法についてはどうなのか、とか)、さらに考えていく必要があります。