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流転の好事家あたしかの公開備忘録

中小路萌美「境界のかたち」展

 
 
 
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 西天満にあるOギャラリーeyesで4月12日〜24日に開催の中小路萌美「境界のかたち」展を見てきました。関西や東海地方を中心に精力的に活動している中小路萌美(1988〜)女史、近年はだいたいこの時期にこのOギャラリーeyesで個展を開催していますが、昨年はコロナ禍の影響もあって小品展の開催にとどまったため、新作を揃えた個展は二年ぶりとなります。


 さておき、今回は大小十点の絵画が出展されていました。デビュー以来、中小路女史の絵画は、風景画から抜き出された諸要素を改めて配置し直すという形で描かれており、それは今回も同様でした《私は実際に見た風景を元に何十層と色を重ねながらかたちを再構成し、見たことのない色やかたちを生み出そうとしています。例えば家や木がある風景であれば、まずキャンバス上に風景をそのまま描き、次にその家や木のかたちとかたちを合体、分解、回転させます。すると徐々に意味を持たなくなった色とかたちが反応し、むにゃむにゃとしたものが生まれ、まるでいのちを得たかの様にあちこちへと動き始めるのです》*1。つまり中小路女史の絵画は一見すると抽象画のように見えますし、実際そうなのですが、しかしそれを構成する要素はかかるプロセスによって得られた実在する/したものに由来しているわけで、その意味でメタ風景画というべきものとなっている。従って、抽象画といっても、具象的なものごとから完全に解離している(あるいはそうあることが目指されている)というわけではなく、コラージュ的に描かれた構成要素が以上のようなプロセスを経て改めて見出され使われていることで、どこか私たちの生きている生活世界との接点が残されているように見えるわけです。その意味で彼女の抽象画は、その歴史の中で蓄積されてきたであろうような、生活世界から解離され還元された形態や色彩の存在感やせめぎ合いをそのまま見せること──巷間、抽象画が意味不明なものとして受け取られてしまうのは、かような行為が広く共有されていないことに起因すると言えるでしょう──とは違った方向性を志向していると言えるでしょう。


 このとき、中小路女史が以上のようなプロセスによって見出されたものを〈むにゃむにゃしたもの〉と呼んでいることは、彼女の作品について考える際に非常に重要である。今回の展覧会に際して出されたステイトメントの中で中小路女史はこも〈むにゃむにゃしたもの〉について次のように述べています。

 

 絵の中のかたちは風景が元になっており、きっぱりとした直線やうねうねした曲線、もやのようなものと様々です。私はこれを「むにゃむにゃしたもの」と呼んでいます。このむにゃむにゃしたものは沢山の再構成を繰り返して生まれたものですが、風景の中にあった形そのものが変化しただけではなく、余白みたいなものが混ざっています。


 風景を一箇所からみると遠くのものも近くのものも同時に見えてはいるけれど、本当はそれぞれがはるか彼方にあって、その距離をぎゅっと圧縮した時に滲み出るなにか、それが「余白」であり、言い換えるなら間(あわい)のようなものでしょうか。*2

 
 〈むにゃむにゃしたもの〉とは「風景の中にあった形そのもの」が「沢山の再構成を繰り返して生まれたもの」だが、そこには常に「余白」が混じっている。そしてその「余白」とは風景の中にあるものが「その距離をぎゅっと圧縮した時に滲み出るなにか」である──中小路女史自身によるかような〈むにゃむにゃしたもの〉の定義は、彼女自身の絵画の説明であると同時に、それを更新する可能性をも含んでいるように、個人的には思うところ。これまでの中小路女史の絵画は、彼女が見た風景を構成要素としていることが如実に示しているように、「私は世界-内的存在である」ということを出発点としているのですが、今回の「境界のかたち」展において「余白」の存在がクローズアップされたことで、「風景の中にあった形そのもの」から要素を得て描くことが新たな形で改めて選び取られているわけです《私が静物や人物といった別のモチーフでは大きさや距離が足りないと感じていたのはこうした理由かもしれません。余白が足りないのです》。このとき、そこに「余白」が加わることで、彼女の絵画には自身の内的世界に対する剰余が描き込まれることになるだろう。そのような要素を描き加えるようになったところに、これまでの画業に対する自己批評と新展開を見出すことができるかもしれません。


 この〈むにゃむにゃしたもの〉を「余白」を含み込んだものとして考え直すとき、そこでは絵画における「空間(性)」、とりわけ絵画空間内における「図」と「地」の関係性が問題になっていると読み替えることができるでしょう。〈むにゃむにゃしたもの〉という言葉はその語感において不定形な何かを見る側に予感させ、図と地の関係性を単一ののっぺりとした「地」が複数の「図」を支えて共存させるという静的なものではなく、「地」と「図」双方が相互貫入的に影響しあうような動的な関係に置き直すことをも予感させる──ところでかかる中小路女史のプログラムの射程について考える上で、岡﨑乾二郎氏による坂田一男論は多くの示唆を与えるものとなっています。自身がキュレーションを行なった「坂田一男 捲土重来」展に寄せた論考の中で、岡﨑氏は坂田がフランスで直面し、帰国後もそれへの回答として自身の表現を独自に洗練させていった問題系について、次のように述べています。

 

今日に至るまで、通俗的モダニズム絵画のルーティンはニュートラル空間(多くは白色の余白)の提示にあり、そのニュートラルな空間を基底にして、その上に複数の形態、異質なオブジェが、ときに整合的にときにランダムに浮遊するように配置される、あるいはそれぞれの形態が透明に重なりあっているかのように表されるというものでした。(略)つまりこの基底に置かれたニュートラルな空間(平面)には、互いに異質ないかなる事物でも置くことができ、並存させることができる。つまり基底になる空間(平面)と、その上に浮遊するさまざまな図=事物は論理的な階層が別である。図は交換可能であるけれども空間はあらかじめ一義的に決定されていて変わることはないのです。図は下位レベルであり、空間(平面)は上位レベルにある。


坂田の絵画の向かっていた方向はまったく異なりました。ニュートラルだとみなされてしまいがちな絵画の平面を単一なものとみなさず、潜在的に異なる質をもった複数の平面があると認め、それを実体として扱う。すなわち同じ平面の上で異質な事物を遭遇させ並存させるのではなく、異なる複数の平面が同時にそこにあるとみなし、それを遭遇、並存させることこそが目指されていたのです。*3

 
 「絵画の平面を単一なものとみなさず、潜在的に異なる質をもった複数の平面があると認め、それを実体として扱う」ところに坂田の絵画の特質があると岡﨑氏は述べているわけですが、ここまで見てきたように、中小路女史の「余白」は(岡﨑氏における)坂田の問題意識と確実に呼応しつつ、その先をも見据えている──「異なる複数の平面」を「異なる」ものたらしめる要素とは何か、そしてそれを画面に描き込むことは可能なのかという疑問にいかに応答するかという問いである。「余白」と〈むにゃむにゃしたもの〉が重要なのは、かかる問いを含んだ位相においてであるわけです。


 ある時期以降、中小路女史の絵画は明確にこの問いを含んだものへと移行しています。つまり、風景画の中の要素によるコラージュが「互いに異質ないかなる事物でも置くことができ、並存させることができる」ものであることをやめ、「異なる複数の平面が同時にそこにあるとみなし、それを遭遇、並存させること」へと明確に方針が変わっている──その転換がいつなのかを特定することは難しいのですが、管見の限り、それは「図」にも「地」にも筆触が明確に現われるようになったときに、かかる転換がなされたと見ることができます《すべてのかたちは等しく、フラットになることが私の絵では重要です》*4。この「すべてのかたち」が「地」を含みこんでおり、それを可能にする因子こそが「余白」であることは、何度でも指摘されるべきでしょう。結果として中小路女史の作品はモダニズム/抽象芸術が潜在的に持っている動的な関係性への指向を改めて問題化していることによって、モダニズム/抽象芸術の問題意識を正当に受け継いでいる。

 

 

 

 

 

*1:引用元→ https://cheerforart.jp/detail/1512

*2:中小路萌美ステイトメントより

http://www2.osk.3web.ne.jp/~oeyes/2021/2021-4nm/2021-4nm.html

*3:岡﨑乾二郎「捲土重来 再起する絵画(絵画の変容そして勝利)」

*4:中小路[2021]