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流転の好事家あたしかの公開備忘録

中村潤「さて」展

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 ギャラリーモーニングで11月26日〜12月8日に開催の中村潤[なかむら めぐ]「さて」展。日程が上手く合ったので、仕事の合間をぬって初日に拝見することができました。糸や紙を素材にした立体/オブジェ作品で以前から活動している中村潤(1985〜)女史ですが、このギャラリーモーニングでの個展は昨年に続いて二度目となります。

 

 当方、中村女史の個展には(今はなきアートスペース虹での個展も含めて)何度か接したことがありますが、昨年9月に開催された個展「あの辺り」展は個人的になかなかクリティカルヒットだったもので。大量の糸が絡まった大玉めいた作品やカラフルな糸くずを組み合わせて自立させた作品、刺し縫いによって作られた不定形なフェルト状のものをいくつか組み合わせて自立させた作品が出展されていましたが、大玉の作品以外は手に乗る程度のサイズで、作品を構成するパーツがそう多くないことからミニマリズム的な相貌を強く押し出したものとなっていたし、特にフェルト状のものを組み合わせた作品はどことなく岡﨑乾二郎氏の《あかさかみつけ》シリーズを彷彿とさせるものがあって、このまま(当時開催されて賛否両論状態だった)「起点としての80年代」展や「ニュー・ウェイブ 現代美術の1980年代」展に出てても全く違和感がなかったわけで、いわゆる「ポストもの派」前後の(1970年代後半〜80年代前半の)日本・現代・美術が割と気になって久しい者としては、この時期の動向から出てきたであろう作品のシミュレーションとしてもクオリティが高かったことに瞠目しきりでした。

 

 ──それを受けて開催された今回の「さて」展ですが、トレーシングペーパーを適当に切って作ったというランダムな形態をカラフルな糸で縫いつけ、自立するようにしたという新作オブジェ作品が中心となっていて、昨年の続きのような作品が出展されるのだろうかというこちらの予想を軽やかに超えてくるものとなっていました。中村女史いわく、あらかじめ計画的に作ったのではなくかなりの程度行き当たりばったりにランダムな形態を生み出したり最終的に自立しさえすればそれでいいといったフィーリングで作られたそうで、かような紆余曲折ぶりもまた作品の構成要素となっていると言えるかもしれません。「あの辺り」や「さて」といったここ最近の個展タイトルのいい意味でアバウトな語感も、それを助長しています。

 

 このように、一見すると緩くてやや脱力感をも覚えさせる作品が揃っていたわけですが、とはいえ、トレーシングペーパーという半透明な素材を用いることで、観る側にそういった見かけにとどまらないものを見せていたこともまた、同時に指摘されるべきでしょう──ことにそれは〈ヴォリューム〉という要素にかかわって、重大である。上述したように、トレーシングペーパーを用いた作品はいくつかのペラペラで半透明な平面が縫い合わされることによってかろうじて(?)自立しているのですが、外光の具合によっては、あるいは観る角度や距離によっては、そこに〈ヴォリューム〉が、あるいはそこまで明確でなくてもそれっぽい何かがなんとなく(視覚による補正作用込みで?)見えてくるわけで、これはなかなか不思議な視覚的経験でした。

 

 個人的に中村女史の作品を見ていてふと思い出したのは、建築家の石上純也(1974〜)氏が2010年に豊田市美術館で開催した「建築のあたらしい大きさ」展( https://www.flickr.com/photos/fomalhaut/sets/72157625119007922/detail/ )のことでした。この展覧会で石上氏は観賞者の、観賞者自身や建築、さらにはそれらをも含みこむ環世界(Umwelt)に対するスケール感を直接的に操作するような作品というか大規模なインスタレーションをいくつか作っています。特に雲の中における水の分子同士の距離を人間のスケール感に合わせた作品は、雲が──私たちが持つイメージとは裏腹に──実はスカスカなものであることを人間の持つスケール感に合わせて可視化させていたのでした。

 

 かかる迂回を経て中村女史の作品に戻りますと、中村女史の作品は半透明のスカスカな素材を用いているという点においては石上氏と問題意識を共有していると見ることができるでしょう。しかしその方向性においては、両者はほとんど正反対の様相を見せている。石上氏においては〈ヴォリューム〉は、それに対する人間の知覚・感覚込みで希薄化され、あるいは解体とまではいかないにしても相対化されるものとしてある/(少なくとも「建築のあたらしい大きさ」展においては)あったのですが、中村女史においては〈ヴォリューム〉は、素材のスカスカ感を通してむしろ強調され、知覚・感覚の領域においてますます立ち現われてくるものとしてある。建築と美術──ことに「立体」という、ある歴史性(の解体)を強く刻印されたジャンル──の違いと言ってしまえばそれまでなのですが、〈ヴォリューム〉をめぐって「建築のあたらしい大きさ」展と「さて」展は時空を超えて際立った対比を見せていたわけですね。

 

 かように〈ヴォリューム〉をめぐる作品を、糸やトレーシングペーパーを用いて、一次元から二次元を通って三次元に至るようにして作っているところに、中村女史の(近作における)特筆大書すべき美質が存在すると言えるでしょう。