みヅゑ…

流転の好事家あたしかの公開備忘録

中島麦展

 f:id:jnashutai:20190701181148j:image

 西天満にあるギャラリー白kuroで6月17日〜29日に開催されていた中島麦展。今年に入ってからVOCA展や、原田要・山本修司各氏との三人展「絵画展…なのか?」展(川口市立アートギャラリー・アトリア)、Gallery OUT of PLACEでの個展と、関東で立て続けに展覧会に出展していた中島氏ですが、関西では数年ぶりの個展となります。


 今回は上にあげた各展覧会の出展作を中心に、新作も出展されていました。いずれもアクリル絵具による絵画作品で、カンヴァス上に絵の具を滴下しそのまま置くという手法で描かれて(描かれて?)おりまして、画面上には複数の色の滴が重なったり併置されたりしていた。とりわけ正面にあたかもトリプティックのように配置されていた絵画(画像参照)は大型のカンヴァスを用いることで滴下した絵の具がカンヴァスのたわみと自身の表面張力によって真ん中で大きく盛り上がっており、制作手法のシンプルさに反して複雑な表情を見せていたのでした。会場のギャラリー白kuroは、その名の通り壁から天井から床に至るまで真っ黒にしつらえられているという、ホワイトキューブならぬブラックキューブと言うべき様相を呈しており、そのためか絵画よりも立体やミクストメディア、あるいは(ギャラリー白が昔から力を入れている)現代陶芸の展覧会の方が個人的には印象に残っていたりする場所なのですが、中島氏の作品は、そんな展示環境においてこそ色彩や絵の具自体の物質性が醸し出す表情が映えるものとなっており、関西の現代絵画の中でも屈指のカラリストとしての相貌をここ数年ますます強めている氏の特質が十全に発揮されていたと言えるでしょう。

 

 しかし今回の個展において私たちが見せられたのは、中島氏のかようなカラリストとしての側面にとどまらないことは、ここで指摘される必要がある。中島氏には無数の色粒に覆い尽くされたタブローと単一の色面が画面の大半を覆ったタブローの左右に配した二点一組からなる《WM》シリーズという作品があり、今回の出展作品は見た目や制作手法においてこのシリーズの延長線上にあると考えられるのですが、《WM》は色の粒子のサイズを両極端に振り分けた上で二点一組という形で対置させることで、絵画を「見ること」のスケール自体の可変性を、絵の構成要素である粒子のサイズの可変性として示すことで見る側に気づかせるものとなっていた──左右それぞれのタブローがそれぞれを拡大もしくは縮小させたもののように見えてしまう(実際は使っている色が微妙に違うのでこのようなアナロジーは成り立たないのですが)ことで、絵画を見る視線が常に揺らいでいることに鑑賞者は気づくことになるわけですね。そして今回の出展作品の多くがカンヴァス上に絵の具を何色か滴下しそのまま置くという手法を取っていることで、ここでは描くという行為自体のスケールの可変性が可視化されることになる。《WM》においては見る側のスケール感の可変性が問題になっていたのに対して、今回の出展作品においては描く側のスケール感の可変性が問題になっている。

 

 今回の出展作品は、中島氏のそれまでの作品と較べてアクションペインティング的な相貌が微妙に感じられる──少なくとも近作において、中島氏はこのような相貌のもとに自作が受容されることを回避しようとしていたように見えます──ものとなっていましたが、以上のような迂回を経てみると、アクションペインティングの「アクション」の単位を極端なまでに微分的にすることが今回の作品においては目指されており、またそのような解析行為をカラリストとしての自身のこれまでの画業と接続させることで、《WM》シリーズによって飛躍的に精度を上げてきた自身の絵画論をさらに新たなフェイズに移行させるものとなっていたことは、ここで強調しておく必要があるでしょう。関東での展覧会を見逃した者として瞠目しきり。