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流転の好事家あたしかの公開備忘録

岸田良子「TARTANS」展

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 galerie 16で8月18日〜29日に開催の岸田良子「TARTANS」展を見てきました。1970年代から現在に至るまで折々で作風を転換させつつ活動を続けている岸田良子女史ですが、2010年からは同じ「TARTANS」というタイトルで個展を続けており、今回はその第10弾(!)となります。

 

 「TARTANS」というタイトルから即座に分かるように、スコットランドの民族衣装を飾るタータンチェック模様をモティーフにした絵画が出展されているわけですが、図鑑に載っている模様を(カンヴァスのサイズに合わせて拡大する以外は)いっさいアレンジを加えずに描き出すという姿勢をずっと崩さずに続けてきてまして、しかも絵筆を使わずペインティングナイフとマスキングテープを使用しているため手描き感がほとんどなく、一見するとレディメイドのようにすら見えてくる。とは言え、このシリーズの見どころは、岸田女史のかかる確かなテクニックにではなく、図鑑に載っているタータンチェックをそのまま描くことそれ自体にあることは、ここで指摘されるべきでしょう。布地/織物に施された模様をそのまま平面に描き出すという行為は、オリジナル/コピーという問題系や、あるいは二次元の模様をモティーフにそれを二次元の絵画に描き出すという行為自体が持つ自己言及性をも含みこむものとなっているわけですが、いずれにしましても、そこでは岸田女史自身の個性というべきものはさしあたり消去されている。かような作品に見られる自己/個性の消去というのは、言ってしまえばデュシャン以後のモダンアート〜現代美術においてはきわめて基本的な所作となっており、その意味で岸田女史の行為もまたそのような所作のひとつの現われと見ることができるのですが、しかしそのようなありふれた言い方で消去することのできない強度というのが彼女の作品において顕在化しているのもまた事実である。

 

 岸田女史の作品や行為が持つ強度を見定める際に、ジャスパー・ジョーンズについて瞥見することはきわめて有益であると考えられます──それは「TARTANS」展における、タータンチェックを絵画に写す=移すという行為がジョーンズの星条旗をモティーフとした絵画と明らかに並行していることに顕著に見られるような即自的な近似にとどまらない。ジョーンズはレオ・スタインバーグによるインタビューの中で自身の仕事に頻出するモティーフについて、モティーフ自体の好き嫌いではなく「ただ(それが)そこにあったというところが好きなのです」と発言している。このジョーンズの発言が重要なのは、主観といったものなしにモティーフ=対象を扱うという態度がそこに現われていることにあります。ここにおいてジョーンズは主観の側からの「自己/個性の消去」とは違った形での「自己/個性の消去」があることを端的に示しているわけですが、それは主観の側からの「自己/個性の消去」が結局メタ的な形での自己/個性を回帰させてしまう──そういった例は枚挙にいとまがない──ことに対する抵抗として機能しているわけですね。その意味で、岸田女史の作品や行為が持つ強度というのは、かような「自己/個性の消去」が別種の自己/個性に回帰してしまうことへのジョーンズ的な抵抗として作品が存在することにある。「TARTANS」シリーズも、おそらく参照先である図鑑に掲載されたパターンが尽きたらその時点で終わるのでしょうが、逆に言うと対象との間にそのような関係しかないこと自体が、岸田女史の「自己/個性の消去」の条件としてあるわけで、そういう形で主観のメタ的な再生産を押しとどめているところにこそ、彼女の特筆大書すべき美質があると言えるでしょう。

 

 ところで、ここ数年のgalerie 16における岸田女史の個展ではこの「TARTANS」シリーズの新作と並行して、彼女の1970年代から80年代の仕事の再展示も行なわれています。これまで俳優女優のポートレートABC…順に並べた26冊の本や自身が収集した和洋中さまざまな料理店のメニューを並べ直してリストアップした本などが出展されていましたが、今回は1984年の個展に出した《住宅地名》が再出展されています。全国各地にあるニュータウンの地名やマンション名を取り出してカード化しているというこの《住宅地名》ですが、一見しただけではどこにあるのか容易には分からない名前も多く存在しており、その意味で固有性を剥ぎ取られた記号の集合に名前を還元していることになるわけで、つまりここでも主観的な操作は排除されている。「TARTANS」シリーズから逆算して見てみると、岸田女史の興味や関心が表層的なメディアやメディウムの差異を超えて一貫していることが即理解できるのでした。