みヅゑ…

流転の好事家あたしかの公開備忘録

川村元紀「プランクトン」展

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 いささか旧聞に属する話ですが、CASで昨年12月14〜28日に開催された川村元紀「プランクトン」展は、川村氏の関西では初めてとなる個展でした。金沢美術工芸大学を卒業後、主にインスタレーション作品を中心に制作活動を続けておりまして、近年は2017年・2019年と二回連続で「引込線」(2019年は「引込線/放射線」)の出展作家に選定されるなど独特な活動範囲を築きつつあります。当方も折に触れて東京や大阪、札幌で作品に接したことがありまして、以前から注目している美術家のひとりです。

 

 さておき、今回は二部屋に分かれているCASの全スペースを活用し、片方の部屋にインスタレーション作品が、もう一方の部屋には(川村氏がインスタレーション作品以前から手がけてきている様子の)ドローイング作品が展示されていました。川村氏の制作活動の両端がコンパクトに、しかし濃縮された形で展示されていたわけですね。インスタレーション作品《タイムライン》は金属製メジャーを大量に使って謎の構造物を作ったり、粘土で作られた長いヒモが床を這っていたり、ゴミ袋とクラッカーを組み合わせて謎の造形物を作っていたり、壁面には英語の簡易クロスワードパズルが貼られていたりと、一見しただけでは意を掴むことがなかなか難しく、それゆえ川村氏らしいと言えば確かにらしい作品となっているわけですが、しかし氏からこれは海中/海の底をモティーフにしていると聞かされ、改めて眺めてみるといろいろ得心がいく──謎の構造物は岩場、粘土のヒモはウミヘビ、ゴミ袋とクラッカーはクラゲを表わしていたのでした。さらに言うとメジャーは測定する/される複数の時間の流れ(まさに「タイムライン」である)を指し示している、という。

 

 かような海中/海の底の様相の換喩的表現に満たされたインスタレーション空間──このような換喩的表現を空間の中に満たすことをある位相において(それは日常的にある既製品や道具を執拗に用いることで開示されるだろう)徹底化された形で表象・提示representationするところが川村氏のインスタレーションの大きな特徴である──という形で構成されている《タイムライン》ですが、この作品が、あるいは「プランクトン」という展覧会タイトルがまさに海の生態系をモティーフとしていることはインスタレーションの、あるいはそこにおける様々な換喩の巧さ/マズさといった評価軸を飛び越えて理解する必要があるでしょう。今回カタログに寄稿している大下裕司(大阪中之島美術館準備室学芸員)氏は川村氏の作品に通底する傾向性として「弱さ」をあげつつ──

 

川村は、先人たちが取り組んできたような作家性や作品の自立性の希薄化やそこからの脱臼、あるいは偶然性の獲得といった奮闘からは距離を取ろうとしている。むしろ、作品として「展示される」ことによって生じる、躱しようのない強い対象化を、展示しないこととは別のルートで迂回する。そこには「弱さ」そのものをそのままに抱えたままで、強い・弱いと良い・悪いという観者のジャッジメントではない、関係の作り直しができるのかという問いが存在している。見せる・見るという関係のなかで、作品や展示が評価されるというところからあえて逃れようとするニッチな在り様は、より良い作品を作っていく者がより良い評価を得ていくだろうという競争の状態ではない納まりを探る。

 

──と述べていますが(大下裕司「ジンベエザメは累乗する」)、ここで大下氏があげている川村氏の作品の「弱さ」は、単に弱いのではなく、「距離を取」ること、「関係の作り直しができる」こと、「競争の状態ではない納まりを探る」ことといったベクトルと不即不離であり、それゆえ「弱さ」は状態ではなく、その「弱さ」にある限りにおいて担保される一種の〈能動性〉というべきものへとつなげられる。この展覧会のタイトルが「プランクトン」であることは、プランクトンを食べることで別の生存競争のルールを自ら作りだして進化していったジンベエザメシロナガスクジラといった巨大生物のことを想定するに、示唆的です。

 

 で、こういった別の生存競争のルールを〈能動性〉のもとに作り出すというある種の生物の営みは海中/海の底を単線的な生のルールのない状態として表象/提示するという《タイムライン》が大きく依拠している当のものであるわけで──そう言えば岡本かの子の小説『生々流転』のラストで子供が主人公に「海にお墓なんて無い」と言うシーンがありますが、ここでの海とは「お墓」=生老病死という単線状のライフサイクル、がない状態であり、その意味で人間的な時間感覚の埒外にある何かを予感させるものがある。後で述べるアーティストトークにおいて川村氏は〈弱い孤立/弱い共生〉を今回の自作のキーワードのひとつとしてあげていましたが、この〈弱い孤立/弱い共生〉は以下のドゥルーズの発言にただちに接続されるべきであろう。

 

 空間を充たすこと、空間を分配することは、空間を分割することとは、まったく違っている。それは、生物に遍歴を配分することであり、生物に錯乱を配分することである。

ジル・ドゥルーズ『差異と反復』)

 

 「生物に錯乱を配分すること」──ドゥルーズが述べる〈共生〉観は後にフェリックス・ガタリとの共同作業において〈平滑空間〉という概念へと超展開していくことになるわけですが、それはともかくとして、川村氏のインスタレーションがその根底においてある〈錯乱〉を胚胎していること、それがいわゆる現代美術における諸メディウムやジャンルを斜めに横断することで〈弱い孤立/弱い共生〉をもたらすこと、これらが川村氏の(今回の出展作に限らない)作風の基底にあることは、ここで改めて確認しておく必要があります。そして、かかる作風は、ドローイングにおいてさらに独特の風貌をともなって立ち現われてくることになる……

 

──

 

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 ところで会期最終日の12月28日には乙うたろう氏を聞き手に迎えてアーティストトークが開催されました(動画参照)。乙うたろう氏がもともとカオス*ラウンジの近傍において活動を開始したこと、壺の表面にアニメキャラ──特に『涼宮ハルヒの憂鬱』のキャラが多いあたりに、氏の好みがよく現われています──の頭部を極端にデフォルメされた形で描きつける《つぼ美》シリーズが代表作であることもあいまって、トークの話題は川村氏のドローイング作品の方に自ずと集中していくことに。川村氏のドローイングは女の子がモティーフとなっていることが多いものの、いわゆる「絵師」と呼ばれる存在が描いているようなものとは真逆の、あやふやな描線で本当に女の子がモティーフなのかどうかも怪しく見えてくるような絵柄(?)だったりするのですが、そのような絵柄を導入することで、氏が言う〈弱い孤立/弱い共生〉がインスタレーション以上に直截に出てきていると、さしあたっては言えるでしょう。で、トークは、《つぼ美》を作る際に「絵師」的な絵柄で既存のキャラを描くことを意識的に採用している乙うたろう氏との間で〈弱い孤立/弱い共生〉が遂行的に実現するような形で進行していったのでした(乙うたろう氏が現役の図画工作の先生であることも寄与していたかもしれない)。個人的には「下手に描くことにもテクニックがいる」という川村氏の発言が印象的。単に下手orヘタウマだから素朴でいいというようなレヴェルの話ではなく、そのように描くことを可能にするメチエや身体の発明という(未完の)課題がここにおいて露呈することになるだろう。トークの際には聞けなかったのですが、川村氏が中原浩大氏のドローイングについてどのように考えているか、気になるところです。