みヅゑ…

流転の好事家あたしかの公開備忘録

Insight 23

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 Yoshimi Artsでは開廊以来、企画展の合間に「Insight」という展覧会を開催しています。最初期はギャラリー所蔵の(主に取扱作家の小品を中心とした)作品を並べていて、他のギャラリーにおける常設展にあたるものとなっていましたが、ここ最近は単なる常設展とはひと味もふた味も違った展開を見せており、個人的には企画展同様刮目しなければならないものとなっている。11月30日〜12月22日の日程で開催されているInsight 23もまた、オーナーの稲葉征夫氏の見識が十全に発揮されたものとなっており、非常に瞠目させられたのでした。

 

 今回は「交差する地点/intersecting viewpoint」というサブタイトルのもと、取扱作家以外も含めた8人の作家の作品が出展されていました。と言っても単純に漫然と並べられているわけではなく、二人ずつ隣り合わせに展示されており、さながら二人展×四組といった趣。それによって何らかの類縁性のもとにカップリングされていること、その類縁性を支えている歴史的でも理論的でもありうるロジックについて観る側の考察を促していたと、さしあたっては言えるでしょう。

 

 ◯今回の出展作家

佐伯祐三/寺林武洋

元永定正/レイチェル・アダムス

カルロ・ザウリ/上出惠悟

泉茂/館勝生

 

 ──今回は以上の四組が出展されていましたが、やはり真っ先に目に入り、気になることしきりだったのは佐伯祐三(1898〜1928)と寺林武洋(1981〜)氏の組み合わせでして、というか佐伯の作品に美術館でも画壇系画廊でもない場所で接するというのは、かなりレアではあり。しかもミュージアムピースとなるような大作ではないもののなかなかな大きさがあったし。最初に一報に接したときは0号とか習作の類であろうと勝手に思っていただけに、いい意味で予想外でした。佐伯の作品は東京美術学校在学中に描いた妻の肖像画、寺林氏の作品は(初期に描かれた)女性を写実的に描いた肖像画で、「女性の肖像画」つながりで対置されていた形になりますが、二人の作品を対置することによって、「肖像画」という、近代絵画において特権的なものとなったジャンルの日本における黎明期〜青春期と紆余曲折を経た現在とを作品を通してショートカットさせていたわけで、これは非常に上手い。

 

 寺林氏は白日会所属画家を中心に日本において謎の盛り上がりを見せている「写実絵画」というムーヴメントから出発しつつ、ガラケーやガスコンロ、ドアノブなど、自身の身辺にあるモティーフを執拗にかつ独特の湿度をともなった筆致で描くという作風で注目を集めていますが──実際、このInsight 23の直前に開催されていた個展(「small life」展)でも、上述したようなモティーフのさほど大きくないサイズの絵画ばかりをあえて展示することによって、氏の美質がさらに突出していたのでした──、ここでの「写実絵画」というのが、少なくとも作家や収集家の間では単に眼前の対象を写実的に描くという一般的な意味用法と明らかに異なった意味合いを含んでいる(らしい)こと、さらに今回、そのような動きの近傍から出てきた絵画が佐伯祐三という日本洋画のビッグネームの一人とされる画家の作品と並べられたことは、単に上手い絵が二枚並べられているというところにとどまらない位相を指し示している。単なる描画行為上のひとつの傾向として以上の意味合いをもってジャンルとして定位された「写実絵画」は近代→現代(→ポストモダン……?)と見かけ上の仮想的な位相においてであれ進行していった絵画史に対する反動──という言い方は一方的に過ぎるのでむしろre-volt(巻き戻し=復古(=維新))という方が適切なのですが、ともあれそのような契機を多く内包していると考えられます。そうでなければ、「写実絵画」の多くはハイパーリアリズムの(周回遅れの?)日本的展開というところに収まってしまうだろう。

 

 以上を踏まえつつ寺林氏の作品に戻りますと、氏の近年の制作活動は、かつて山下裕二氏が喝破したように明治初期の高橋由一の作品に比せられることで、「写実絵画」が確かなスキルを武器にモティーフの圧倒的な分かりやすさ・共感しやすさのもとに集合的に遂行していった絵画史に対するre-voltを「写実絵画」以上のテンションをもって反復していることになります。山下氏による寺林武洋≒高橋由一説が慧眼なのは単なる描き方やモティーフの類似性加減によってのみならず、最初の洋画家と言われることが多い高橋に寺林氏が近似することで、氏がre-voltを敢行していることをも射程に入れているからです。だからこそ寺林氏の作品を佐伯の作品と並べることは、絵画をめぐる近年の史的な(超)展開がもたらしたアクチュアリティのもとに氏の作品(と佐伯の作品)を置き直して再審することで、現在における諸ムーヴメントに目を向け直すことを、さらに言うとre-voltによる絵画史全体の見直しを観る側に強く要請するものとなっているのである。

 

──

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 あとの三組については駆け足になってしまいますが、元永定正(1922〜2011)/レイチェル・アダムス(1985〜)のカップリング(画像参照)では、プラスティックを主に用いて1920〜30年代の彫刻家の部屋あるあるな情景をインスタレーション風に再現/提示するアダムスと、元永による「具体」解散後の絵画/版画作品──そこでは、「具体」時代におけるアクションの痕跡は影をひそめ、謎の不定形な色と形が存在感をともなって描かれることになるだろう──がそのまま立体化したような椅子っぽいオブジェとが並べて置かれることで、アダムスの作品に新たな光を当てることになっていました。ヴィジュアル的な質感と実際の素材とのギャップをあからさまにしつつ、そこに歴史や概念の様々な位相をたたみこんで提示するという、その手法の巧みさがアダムス作品の持ち味なのですが、そのような拡張されたコンセプチュアリズムが元永の色彩/形態と奇妙かつ絶妙に呼応していたわけで、これも上手いこと組み合わせてきたなぁと思うことしきり。またカルロ・ザウリ(1926〜2002)/上出惠悟(1981〜)氏のカップリングは、イタリア現代陶芸界の重鎮として名を成したザウリの作品を今見せることで、ともするとドメスティックな位相に自足しがちな日本の陶芸(をめぐる言説)に対するカウンターとなっていたし、そんな彼の作品と、別の角度から日本の陶芸・工芸の言説空間に実践的に対抗し続けている上出氏とを並べることは、陶芸・工芸に対する視線のアップデートを要請しています。そして泉茂(1922〜95)/館勝生(1964〜2009)のカップリングは、師匠であった泉と弟子であった館の作品を通してこの二人がいかなる意識を共有し、また離れていたか(それは館がどういう理路(と同時代性)を通して師匠超えを敢行しようとしていたのかを跡づけることにもつながるでしょう)を小品ながらもテンションの高い絵画によって考え直すことを促していました。