みヅゑ…

流転の好事家あたしかの公開備忘録

加賀城健展

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 花見小路沿いにある祇をん小西( https://gionkonishi.com/ )で9月19〜27日に開催の加賀城健展を見てきました。加賀城健(1974〜)氏は1990年代から関西で染色作品を作り続け、近年は金沢に拠点を移して活動していますが、今回はそんな加賀城氏の京都では久しぶりの個展となっています。

 

 今回は伝統的な京町家の内装をよく残している祇をん小西の三つの展示空間──通りに面した四畳半ほどの小部屋、二部屋続きの広間、坪庭を挟んだ向こう側にある小スペース──にそれぞれ別シリーズの近作/新作を出展するという構成でした。もう少し具体的に見ていきますと、最初に接することになる小部屋ではそれぞれ赤と青に染められた二枚の布が何かに覆いかぶさるように敷かれており、続く広間では茫洋とした色彩に染められた同じサイズのタブローが整然と並び、最後に奥の小スペースには染色用の糊をスキージを用いて布地の上で力ずくで引き伸ばして染めた作品が敷かれていたわけですが、以上の作品群の中でも個人的にとりわけ瞠目したのは、広間に整然と置かれた《Shimmering》シリーズでした。改めて触れておきますと、このシリーズは一見するといくつかの色が淡く茫洋とした趣をもって、それぞれ違った色合いと風合いに染められているという作品だったのですが、加賀城氏いわく、これらは水を張って染料を数滴垂らしそこに布地をかぶせて自然に染みこんでいく(マーブリングを想起すると分かりやすいでしょう)ことで作られているそうです──つまり氏の手は制作の準備段階以外では染料を垂らすことと終わったあと布地を適切なサイズに切っていくこと以外にはなく、最も重要な「染め」のプロセスには主体的には関わっていないわけですね。で、様々な色合いと風合いを持ってタブローとして加工された布地が22点、畳敷きの上に整然と並べられていた、という。

 

 加賀城氏がいかなる意図のもとにいかなる理路をたどってこの《shimmering》シリーズに至ったのかについては聞きそびれてしまったのですが、個人的には以上のような手法を採用したことで、染色という技法がジャンル内における様々なスペシフィシティ(メディウム、手技、ジャンル論的自意識etc)の支えないしエクスキューズがなくても、美術というかより広く表現一般という位相においてもまた有効な提案ができる──管見の限り、ある時期以降の現代工芸は、上にあげたような様々なスペシフィシティの内部に自足することによって表現一般という位相に対することを回避してきたように見えます(それによってジャンル内部における多様性と多産性が、そして以前から言われているような「(現代)美術と工芸のクロスオーバー」という動きが保証されるようになったというのが、また難儀なのですが)──ことを、作品によって示しえていたことが非常に重要であると考えられます。ことにそれは〈無意識〉という概念にかかわって、重大であろう。

 

 〈無意識〉とは何かについての厳密な定義については(当方の能力をはるかに超えているがゆえ(爆))ここでは超大雑把に「自意識の外ないし下部にあり、別個の構造をもって作動している心的機制」としておきますが、〈無意識〉とそれを表現することとの関係は単純なものではありません。例えば20世紀前半におけるシュルレアリスムは、〈無意識〉を表現するに際して、なにがしかの主体が表現するのではなく、〈無意識〉が(主体を介さずに)自身を表現するという、そのような事態を集団的実践を通して目指していました。かかるシュルレアリスムの経験/実践から〈無意識〉についてさらに一歩進めることができるでしょう──〈無意識〉とは表現に先立って即自的に存在するのではなく、非主体的な表現が先行しているし、そのような表現がなければ無意識もまた存在しないのである。

 

 加賀城氏の作品に戻りますと、《Shimmering》シリーズにおいては、既に見てきたように、染料が布地に自然に浸透していくプロセスが作品を構成する大きな要素となっているのですが、かような手法を採用したことで、このシリーズは〈無意識〉と表現との逆立的な関係についての作品、表現が〈無意識〉に先行している──より正確に言うと表現の中断によって〈無意識〉が露呈する──という複雑な心的機制それ自体についての作品となっていると言えるでしょう。それを自身のというより、言うなれば自身+(非主体的な)モノの〈無意識〉という仮想-実効的な(virtual)位相において、工芸とそのサブジャンルとしての染色の技術的な核心を放棄することなく、しかしそれにジャンル論的に内閉することもなく遂行しきったところに、この作品の特筆大書すべきアクチュアリティが存在する。

 

 ところで加賀城氏は2017年にthe three konohana(大阪市此花区)で前期・後期にわたって開催された「〈Physical/Flat〉」展が当時における事実上の回顧展となっていた*1もので、そこでは布地に加えられた物理的な力の痕跡を染色という形で表現するという1990年代〜ゼロ年代前半の作風を起点に、色彩の大胆な(再)導入によって〈染色〉という行為をジャンル論的に再画定しようとする──絵画との対質がそこでは問題になるだろう*2──ゼロ年代後半〜ここ数年の作風への推移が作品を通して可視化されていたわけですが、今回の出展作はそのような氏の作風の観点からすると、初期→中期→(「〈Physical/Flat〉」展以後の)現在それぞれの段階を、再考やリメイクを含めた形で再演するものとなっていたのでした。かかるプロセスを経てついに至ったのが《Shimmering》シリーズであることは、ここで押さえておく必要があるでしょう。加賀城氏の息の長い持続的な実践がもたらしたものは、かくも豊潤なのである。

*1:前半(「Physical Side」)→ http://thethree.net/voice/4619 、後半(「Flat Side」)→ http://thethree.net/voice/4621

*2:次の文章を参照のこと《染色をして作品発表する方々と話す機会があるとする。話の内容は決まってあの人は絵が描ける、描けない、という話に終始して、その絵がなぜ染色でなければならないのかの議論が少ない。私はこのことにずっと疑問を抱いてきた。染色家たるもの、その求める中心に染めることがあるべきだと考えるからだ》(加賀城健「創作をとおしての所感」)

竹山富貴「2人きり」展

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 昨年あたりからでしょうか、この時期のギャラリーマロニエではa.k.a.京都造形芸術大学の学生──とりわけ、半年後に卒展を控えている4回生──の個展が開催されるようになっていますが、今年も3フロアで3人の個展がそれぞれ開催されていました(9.8〜13)。その中でも出色だったのは、4Fのスペースで開催されていた竹山富貴「二人きり」展。

 

 現在同大学の総合造形コースに在学中という竹山富貴(1997〜)女史、今回の出展作は大型のヌード写真の手前に黒い線を施した同サイズのビニールシートを垂らした作品でした。ビニールシートにカッティングシートによって施された線は一見するとランダムで断片的なものに見えますが、実際は被写体の輪郭からアタリを取って描いておりまして、で、鑑賞者はそれが描かれたビニールシート越しに写真(と被写体)に接することになる──かような観賞形式が何の隠喩なのかについては、このご時世もはや触れるまでもありますまい。竹山女史は以前から女性の身体をモティーフにドローイングや写真作品を制作しているそうで、今回の場合、昨今のコロナ禍で自身がなかなか外出ないし大学での制作活動ができないさなか、知人にカメラを渡し、彼が撮ってきた恋人の写真を素材にしているという(実際は首から下しか写っていないので、具体的に誰なのかは窺い知れないのですが)。

 

この写真は、私がある男性にカメラを渡し、彼の恋人のヌードを撮ってきてもらった。2人きりの空間で撮られた写真は、彼らの非常にプライベートな空間であり、外の世界から隔離された世界だった。その女性の体に私が線を描き、彼らの日常の中にあるヌードと私の線を融合させた。(ギャラリー内にあったステイトメントより)

 

 以上のように竹山女史の今回の作品は、自身のではないプライベート写真を用いてそこに間接的にではあれ自身の仕事を描き加えることで、プライベート/パブリックという二項に対して別の視角から介入しようとしていることが上のステイトメントからも読み取ることができるわけですが、ではそれはいかにしてなされているか。上述したように今回の出展作は大型のヌード写真の手前に黒い線を施した同サイズのビニールシートを垂らし、そこにカッティングシートによって被写体の輪郭線をなぞる線が施されているわけですが、実際に作品に接してみるとそれは厳密になされているわけではなく、断片化された諸線分として描かれている。そして照明の加減によって線分と実際の輪郭線は往々にして一致せず、線分の影が写真の上に胡乱に投影される──言うまでもなく、それは鑑賞者の見る角度によってさらに変化していくことになるだろう。こうしてプライベートな形で撮影された写真は二重化され、身体をめぐる輪郭線が他者によって胡乱なものとなって、被写体自体をさらに胡乱なものにしていく。竹山女史は以前、同じように大判のヌード写真(このときはネットから拾ってきた画像を用いたそうだ)を用いて、被写体の輪郭線を太い鉄線を曲げることでなぞり、写真の前に置いたそうです。かような、鉄線からカッティングシートへのメディウムの変更が効いているのは、鉄線だと線が自立してしまい、写真と独立して存在してしまうからなわけで(実際、講評会の場でそれはジュリアン・オピーの作品と何が違うのかと、相当突っ込まれたとのこと)、その点から見ても、今回ビニールシートとカッティングシートによって胡乱な線分を作り出したことは慧眼であると言えるでしょう。プライベート/パブリックという二項を、互いに分離させて存在させるのではなく、双方が胡乱に攪乱される、そのような場・舞台として被写体を存在させること。

 

 それを踏まえた上で改めて作品に向き合ってみると、今回の作品がビニールシートを用いることで現状において不可避的に帯びてしまう文脈や性質・性格──巷間それは「ポストコロナ」や「with corona」、「under corona」といった言葉とやや雑に紐づけられているわけですが──を越えた視覚的効果を持ちえているように、個人的には思うところ。これを踏まえて卒展においてどのようにブラッシュアップしていくか、要経過観察。

 

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 ところで他の方々の個展についても軽く触れておきますと、5Fで開催されていた小西葵「ふしぎななかま」展は自作のもふもふした架空の生き物のオブジェが会場内にリアル/ヴァーチュアル問わず点在しているという趣でしたが、その生き物を山林の中に置いた様子やそんなオブジェたちと共生(?)する作者の奇妙な生活を映した映像作品が意外と面白く、これはむしろ映像だけの展示にしても良かった説。また3Fの浦和寿幸「やわらかい生活」展はエメラルドブルーの釉薬が爽やかな器が並べられており、工芸的な端正さと真っ当さは良い感じでしたが、現代陶芸はここからどう超展開させていくかが勝負どころなので、そのはるか手前でとどまった印象(まぁ工芸系の学部生にそこまで求めるのは酷に過ぎるんですが)。

 

 

おかんアートと現代アートをいっしょに展示する企画展

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okanart.jp

 

 京都市立芸術大学ギャラリー@ KCUAで8月8日〜30日に開催の「おかんアートと現代アートをいっしょに展示する企画展」を見てきました。主に神戸市を中心に活動している「下町レトロに首ったけの会」の企画による展覧会。〈おかんアート〉とはおそらく関西人以外には聞き慣れない言葉でしょうが、「おかん」は関西においては母親のことを呼ぶときの俗語であり、従って「おかんアート」とは母親ないし中高年の女性が(主に暇つぶしに)作る作品のことであると言えるでしょう。

 

 「おかんアート」(”おかん”は関西弁で”母親”の意)とは、主に中高年婦人が余暇を利用して製作する手芸作品や創作活動全般の事を指します。 しかし、この言葉は単に”母の作る手芸作品”を指し示すと同時に、いらないもの(もらって置き場に困るもの)・ センスの悪いもの(もっさりしたもの)等といった、残念な意味合いで使われることも多い言葉であります。 本展ではこの「おかんアート」に見られる表現の面白さに注目し、おかんアートと共におかんアート的な手法や雰囲気を持ち合わせる現代アートの作品をピックアップ、それらを区分けなしに展示します。 おかんアート・現代アートといった、それぞれの文脈や属性があいまいに溶け合う場で、見え隠れする表現そのものの面白さにご注目ください。

公式サイトより

 

 

 ──というような、関西人にとってはいまさらに過ぎる前置きはさておき、この「おかんアートと現代アートをいっしょに展示する企画展」展(以下おかんアート展と略)は、そのタイトルから、そして上にあげたステイトメントから一見即解できるように、〈おかんアート〉と「現代アート」を同じ展示室内に混ぜこぜに展示することそれ自体を目的とした展覧会であると、さしあたっては見ることができます。従って、そこでは両者の異質性よりも同質性の方が際立つような作者と作品がセレクトされていることになる。先ほどのステイトメントにおいては〈おかんアート〉について《この言葉は単に“母の作る手芸作品”を指し示すと同時に、いらないもの(もらって置き場に困るもの)・センスの悪いもの(もっさりしたもの)等といった、残念な意味合いで使われることの多い言葉でもあります》とより踏み込んだ定義がなされていますが、「現代アート」の側もそれを受けて手芸的なテイストを強く感じさせる作家と作品がより多く出展されていたわけですね。

 

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 かかる観点から見たとき、個人的には中村協子女史の《孤独なフェティッシュ》シリーズや、ムラギしマナヴ氏の《実家美》シリーズが「「現代アート」側から見た〈おかんアート〉」度がなかなか高かったように思うところ。前者はヘンリー・ダーガーの絵画というか妄想絵巻に描かれた少女たちの衣服をお人形サイズで作ったといった趣の、後者は(古い住宅にありがちな)子供がシールをベタベタ貼ったり落書きしたりした壁をそのまま切り出したかのような趣の作品ですが、文字通りの手芸作品という点で、あるいは家庭内にある「センスの悪いもの(もっさりしたもの)」の要素を濃縮したような一隅を主題にしているという点で、これらは確かに「「現代アート」側から見た〈おかんアート〉」という再帰的な自己言及それ自体を見るべき作品となっていたと言えるでしょう。このほかにもアップリケを多用した作品を出していた青木陵子女史やヘタウマ感あふれるイラスト的な作品を出していた森田麻祐子女史あたりにも「現代アート」側から見た〈おかんアート〉的要素をさほど困難なく見出すことができる。

 

 で、そういう「現代アート」側の作品を一見するとカオスそのものな展示空間に混ぜ込むことによって、おかんアート展は〈おかんアート〉の「現代アート」による簒奪・収奪とも、あるいは逆に「現代アート」の〈おかんアート〉による土俗化・オタク文化化とも異なるキュレーション的達成を見せていたのでした。これは企画者が〈おかんアート〉の推進者──実際、「下町レトロに首ったけの会」は神戸市内で〈おかんアート〉のワークショップや作品集の出版などを10年にわたって続けているという──だからという表層的なレベルで済ませられないものがある。

 

 リヒターをはじめとするドイツ現代美術や現代写真についての著書が多い美術評論家の清水穰氏はとある文章の中で次のように述べている。

 

 現代(=今現在の)美術はおばさんにはなかなか受け入れられない。一つにはもちろん、それらの価値がまだ定まらないからである。うちのカタログに掲載されるのは選び抜かれた本当の本物だけです、というわけだ。しかし、もう一つ、より本質的な理由があるだろう。それはおばさんのほうが現代美術だから、というものである。だから生半可な現代美術は必要とされない。(略)おばさんのほとんどは短大や大学を卒業したあと、短い会社勤めを経て結婚し、その後ずっと社会から放っておかれた存在なのである。男社会の中で「女」や「母」を演じつづけ、その後舞台を降りた彼女らの中に、数十年間かかって純粋な非社会性の結晶が沈殿する。それを「永遠に女性的なるもの」と呼んでおこう。男社会の粗雑な理解をすり抜けてしまう「永遠に女性的なるもの」は、基本的に性別(それは男社会によって押しつけられる)とは関係ないが、二十世紀末の日本では都市周辺の家庭の女性に多く宿っている。

(清水穰『永遠に女性的なる現代美術』(淡交社、2002)、18-19)

 

 

 ここで清水氏が言っている「おばさん」を「おかん」に、「現代美術」を「現代アート」に置き換えると、この文章はほぼそのまま〈おかんアート〉について論じたものとして読むことができる──つまり〈おかんアート〉とは「永遠に女性的なるもの」である。清水氏の所説において「永遠に女性的なるもの」とは「数十年かかって」「沈殿」した「純粋な非社会性の結晶」であるわけですが、〈おかんアート〉もまた家庭内において作られ、沈殿していくものという点において「純粋な非社会性の結晶」となっている。その「純粋な非社会性の結晶」を、しかしそういうものにとどまらない何かとして提示しているところに〈おかんアート〉のコンセプト的な強度が存在するのでした。

岸田良子「TARTANS」展

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 galerie 16で8月18日〜29日に開催の岸田良子「TARTANS」展を見てきました。1970年代から現在に至るまで折々で作風を転換させつつ活動を続けている岸田良子女史ですが、2010年からは同じ「TARTANS」というタイトルで個展を続けており、今回はその第10弾(!)となります。

 

 「TARTANS」というタイトルから即座に分かるように、スコットランドの民族衣装を飾るタータンチェック模様をモティーフにした絵画が出展されているわけですが、図鑑に載っている模様を(カンヴァスのサイズに合わせて拡大する以外は)いっさいアレンジを加えずに描き出すという姿勢をずっと崩さずに続けてきてまして、しかも絵筆を使わずペインティングナイフとマスキングテープを使用しているため手描き感がほとんどなく、一見するとレディメイドのようにすら見えてくる。とは言え、このシリーズの見どころは、岸田女史のかかる確かなテクニックにではなく、図鑑に載っているタータンチェックをそのまま描くことそれ自体にあることは、ここで指摘されるべきでしょう。布地/織物に施された模様をそのまま平面に描き出すという行為は、オリジナル/コピーという問題系や、あるいは二次元の模様をモティーフにそれを二次元の絵画に描き出すという行為自体が持つ自己言及性をも含みこむものとなっているわけですが、いずれにしましても、そこでは岸田女史自身の個性というべきものはさしあたり消去されている。かような作品に見られる自己/個性の消去というのは、言ってしまえばデュシャン以後のモダンアート〜現代美術においてはきわめて基本的な所作となっており、その意味で岸田女史の行為もまたそのような所作のひとつの現われと見ることができるのですが、しかしそのようなありふれた言い方で消去することのできない強度というのが彼女の作品において顕在化しているのもまた事実である。

 

 岸田女史の作品や行為が持つ強度を見定める際に、ジャスパー・ジョーンズについて瞥見することはきわめて有益であると考えられます──それは「TARTANS」展における、タータンチェックを絵画に写す=移すという行為がジョーンズの星条旗をモティーフとした絵画と明らかに並行していることに顕著に見られるような即自的な近似にとどまらない。ジョーンズはレオ・スタインバーグによるインタビューの中で自身の仕事に頻出するモティーフについて、モティーフ自体の好き嫌いではなく「ただ(それが)そこにあったというところが好きなのです」と発言している。このジョーンズの発言が重要なのは、主観といったものなしにモティーフ=対象を扱うという態度がそこに現われていることにあります。ここにおいてジョーンズは主観の側からの「自己/個性の消去」とは違った形での「自己/個性の消去」があることを端的に示しているわけですが、それは主観の側からの「自己/個性の消去」が結局メタ的な形での自己/個性を回帰させてしまう──そういった例は枚挙にいとまがない──ことに対する抵抗として機能しているわけですね。その意味で、岸田女史の作品や行為が持つ強度というのは、かような「自己/個性の消去」が別種の自己/個性に回帰してしまうことへのジョーンズ的な抵抗として作品が存在することにある。「TARTANS」シリーズも、おそらく参照先である図鑑に掲載されたパターンが尽きたらその時点で終わるのでしょうが、逆に言うと対象との間にそのような関係しかないこと自体が、岸田女史の「自己/個性の消去」の条件としてあるわけで、そういう形で主観のメタ的な再生産を押しとどめているところにこそ、彼女の特筆大書すべき美質があると言えるでしょう。

 

 ところで、ここ数年のgalerie 16における岸田女史の個展ではこの「TARTANS」シリーズの新作と並行して、彼女の1970年代から80年代の仕事の再展示も行なわれています。これまで俳優女優のポートレートABC…順に並べた26冊の本や自身が収集した和洋中さまざまな料理店のメニューを並べ直してリストアップした本などが出展されていましたが、今回は1984年の個展に出した《住宅地名》が再出展されています。全国各地にあるニュータウンの地名やマンション名を取り出してカード化しているというこの《住宅地名》ですが、一見しただけではどこにあるのか容易には分からない名前も多く存在しており、その意味で固有性を剥ぎ取られた記号の集合に名前を還元していることになるわけで、つまりここでも主観的な操作は排除されている。「TARTANS」シリーズから逆算して見てみると、岸田女史の興味や関心が表層的なメディアやメディウムの差異を超えて一貫していることが即理解できるのでした。

関本幸治「光をまげてやる」展

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 千本三条にある京都場で開催中の関本幸治「光をまげてやる」展(http://kyoto-ba.jp/exhibition/koji-sekimoto-bend-light/)を見てきました。関本幸治(1969〜)氏はキヤノン写真新世紀で佳作を受賞したことがあるなど、写真家として一定の評価を得て久しいですが、当方は黄金町バザール(2010)や激凸展(2011)といったグループ展で写真作品に接したことがあるものの、個展は今回が初めてでして。

 

 そんな関本氏、ジオラマや人形などを自作しそれを撮影するという作風で知られていますが、この「光をまげてやる」展ではそうして撮影された写真とともに被写体となったジオラマも展示されておりまして、より多角的に氏の作品に接することができます。で、実際にジオラマに接してみると、細部のとりわけ動植物の作り込みのレベルがなかなかなものがあり、現実の模型的な再現という方向性とは違った魅力のあるものとなっていましたが、その一方でどこか歪な印象を見る側に与えるものとなっていました。ここで重要なのは、かかる歪さが、作られたシチュエーションの歪さとは別のレベルにおける歪さを含み込んでいるということです。

 

 私が作り上げた撮影セットは博物館のイメージがある。博物館は写真を三次元にしたかのようである。温度湿度が管理された中で、道具や衣装は触れることができない。すなわち展示物は、過去の生活を彷彿させはするが、生きてはいない。私はこうした偽物の空間を制作し、さらにそれをカメラという装置で、嘘の上塗りである写真に置き換える作業を行なう(会場で販売されていた小冊子『写真館の椅子』(BankART1929、2014)より)

 

 ──関本氏は自作のジオラマについて、以上のように「博物館」の比喩で語っていますが、被写体を含めた自作と博物館との共通点として「偽物の空間」であることをあげ、博物館を「写真を三次元にしたかのよう」なものとすることによって、「写真」の、とりわけこの言葉が含んでいる「真」の自明性自体を揺さぶりにかかっていると言えるでしょう。関本氏の作品における歪さは、被写体を自作して撮影するという一連のプロセスのどこにも「真を写す(ものとしての写真)」という要素が存在しないことにあるわけです。かくして、氏の写真からは「真(なるもの)」は剥ぎ取られ、「嘘の上塗りである写真に置き換える作業」によって、虚/実は相互に反転する中で消失していく。それは虚/実という二分法の埒外におけるまったく不分明な何か──それをヴァルター・ベンヤミンに倣って〈大衆〉と呼んでも、そう突飛な連想ではない(ベンヤミンにおいて〈大衆〉は写真技術の副産物として19世紀において初めて現われるものとされる)はずです──を召喚することになるだろう……

 

 というわけで、関本氏の作品は、例えば杉本博司氏がとりわけ初期において自然史博物館や蝋人形館の展示物を好んで被写体としていたことと、被写体のチョイスや遂行的に示されるスタイルという点において明らかに連続しているわけですが、杉本氏と違って自分で被写体を作るというプロセスを導入することで、写真が「偽物の空間」をめぐる技芸であることが、そしてその点において撮影という行為が「嘘の上塗り」であることが、より直接的に現われている──今回出展されていたジオラマが《Lady Justice》というタイトルだったことは、どこか暗合めいていますし、そして「「偽物の空間」をめぐる技芸」としての写真という側面は、この展覧会において一緒に展示されていた(激動の時代を生き抜いたという設定の)四姉妹の自作フィギュアを被写体としたシリーズにおいて、さらに加速していくことになる。

 

 虚実がめくるめく反転していく関本ワールドを堪能できる、関西では貴重な機会となったのでした。30日まで。(9月6日追記:9月27日まで会期が延長されています)