みヅゑ…

流転の好事家あたしかの公開備忘録

竹山富貴「2人きり」展

www.instagram.com

 

 昨年あたりからでしょうか、この時期のギャラリーマロニエではa.k.a.京都造形芸術大学の学生──とりわけ、半年後に卒展を控えている4回生──の個展が開催されるようになっていますが、今年も3フロアで3人の個展がそれぞれ開催されていました(9.8〜13)。その中でも出色だったのは、4Fのスペースで開催されていた竹山富貴「二人きり」展。

 

 現在同大学の総合造形コースに在学中という竹山富貴(1997〜)女史、今回の出展作は大型のヌード写真の手前に黒い線を施した同サイズのビニールシートを垂らした作品でした。ビニールシートにカッティングシートによって施された線は一見するとランダムで断片的なものに見えますが、実際は被写体の輪郭からアタリを取って描いておりまして、で、鑑賞者はそれが描かれたビニールシート越しに写真(と被写体)に接することになる──かような観賞形式が何の隠喩なのかについては、このご時世もはや触れるまでもありますまい。竹山女史は以前から女性の身体をモティーフにドローイングや写真作品を制作しているそうで、今回の場合、昨今のコロナ禍で自身がなかなか外出ないし大学での制作活動ができないさなか、知人にカメラを渡し、彼が撮ってきた恋人の写真を素材にしているという(実際は首から下しか写っていないので、具体的に誰なのかは窺い知れないのですが)。

 

この写真は、私がある男性にカメラを渡し、彼の恋人のヌードを撮ってきてもらった。2人きりの空間で撮られた写真は、彼らの非常にプライベートな空間であり、外の世界から隔離された世界だった。その女性の体に私が線を描き、彼らの日常の中にあるヌードと私の線を融合させた。(ギャラリー内にあったステイトメントより)

 

 以上のように竹山女史の今回の作品は、自身のではないプライベート写真を用いてそこに間接的にではあれ自身の仕事を描き加えることで、プライベート/パブリックという二項に対して別の視角から介入しようとしていることが上のステイトメントからも読み取ることができるわけですが、ではそれはいかにしてなされているか。上述したように今回の出展作は大型のヌード写真の手前に黒い線を施した同サイズのビニールシートを垂らし、そこにカッティングシートによって被写体の輪郭線をなぞる線が施されているわけですが、実際に作品に接してみるとそれは厳密になされているわけではなく、断片化された諸線分として描かれている。そして照明の加減によって線分と実際の輪郭線は往々にして一致せず、線分の影が写真の上に胡乱に投影される──言うまでもなく、それは鑑賞者の見る角度によってさらに変化していくことになるだろう。こうしてプライベートな形で撮影された写真は二重化され、身体をめぐる輪郭線が他者によって胡乱なものとなって、被写体自体をさらに胡乱なものにしていく。竹山女史は以前、同じように大判のヌード写真(このときはネットから拾ってきた画像を用いたそうだ)を用いて、被写体の輪郭線を太い鉄線を曲げることでなぞり、写真の前に置いたそうです。かような、鉄線からカッティングシートへのメディウムの変更が効いているのは、鉄線だと線が自立してしまい、写真と独立して存在してしまうからなわけで(実際、講評会の場でそれはジュリアン・オピーの作品と何が違うのかと、相当突っ込まれたとのこと)、その点から見ても、今回ビニールシートとカッティングシートによって胡乱な線分を作り出したことは慧眼であると言えるでしょう。プライベート/パブリックという二項を、互いに分離させて存在させるのではなく、双方が胡乱に攪乱される、そのような場・舞台として被写体を存在させること。

 

 それを踏まえた上で改めて作品に向き合ってみると、今回の作品がビニールシートを用いることで現状において不可避的に帯びてしまう文脈や性質・性格──巷間それは「ポストコロナ」や「with corona」、「under corona」といった言葉とやや雑に紐づけられているわけですが──を越えた視覚的効果を持ちえているように、個人的には思うところ。これを踏まえて卒展においてどのようにブラッシュアップしていくか、要経過観察。

 

──

 

 ところで他の方々の個展についても軽く触れておきますと、5Fで開催されていた小西葵「ふしぎななかま」展は自作のもふもふした架空の生き物のオブジェが会場内にリアル/ヴァーチュアル問わず点在しているという趣でしたが、その生き物を山林の中に置いた様子やそんなオブジェたちと共生(?)する作者の奇妙な生活を映した映像作品が意外と面白く、これはむしろ映像だけの展示にしても良かった説。また3Fの浦和寿幸「やわらかい生活」展はエメラルドブルーの釉薬が爽やかな器が並べられており、工芸的な端正さと真っ当さは良い感じでしたが、現代陶芸はここからどう超展開させていくかが勝負どころなので、そのはるか手前でとどまった印象(まぁ工芸系の学部生にそこまで求めるのは酷に過ぎるんですが)。