みヅゑ…

流転の好事家あたしかの公開備忘録

大石茉莉香「ラクリモーサ」展

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 KUNST ARZTで8月1日〜9日に開催の大石茉莉香「ラクリモーサ」展を見てきました。以前の同所での個展では花の写真をフォト用紙の裏面にプリントアウトし、定期的に水をかけることで洗い流すという作品を出展していた大石女史ですが、今回はどこかから調達してきた半壊したディスプレイを用いたインスタレーション作品を出しています。

 

 タイトルの「ラクリモーサ Lacrimosa」とは、モーツァルト作曲のレクイエムの中の一曲で、彼の絶筆としても知られていますが、今回大石女史は半壊したディスプレイたちにその「ラクリモーサ」の演奏動画──まさにモーツァルトの絶筆となったところで音声が自動的にoffになる──を流し、床面には自筆譜の絶筆となったページの超拡大コピーと大石女史の手でカチ割られたガラス板を配していました。一見すると全体的に「死」のイメージが濃厚に漂っているインスタレーションといった趣を見せているわけですが、しかしもう少し仔細に接してみると、ことはそう単純ではない。このインスタレーションを構成しているのは、単に「死んでいる」ものではなく、画面が割れてるけど何も映らないわけではないディスプレイ(大石女史いわく、部品取り用として販売されているものを買ってきて、以前からストックしているそうだ)だったり、あるいは演奏されている「ラクリモーサ」自体、モーツァルトの絶筆ではあるけど後世に弟子によって補筆されて「完成」しているものだったりというところに顕著なように、「生きている」と「死んでいる」を一義的に分けられない、フランケンシュタイン=フレッシュゴーレム的なモノであるからです。その意味で今回のインスタレーションにおいては「「死」のイメージ」がというより、死後の生と生前の死が交差し混濁している謎の状態のイメージが表現されていると言うべきであり、それは以前の個展における作品が「(イメージの)死」を引き延ばすことを意図していたことと明らかに連続していると言えるでしょう。

 


 ところで別室に展示されていたもう一点のインスタレーションは、やはり半分故障したディスプレイと棺桶を模したオブジェによって構成されていましたが、そこでのディスプレイが室内の様子をライブで映し出しつつ、しかし映っている人やモノが見ようによっては透過状態になっており、観者もまたディスプレイの中で生霊状態になることができたわけで、この故障の仕方はあまりにも絶妙過ぎるし、そういうのを使った時点で圧勝(←何にやねん)感があって、こちらも良かったです。