みヅゑ…

流転の好事家あたしかの公開備忘録

冬木遼太郎「それも美しい」展

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 冬木遼太郎「それも美しい」展。2019.11.20〜12.1  東大阪市民美術センター──展覧会自体は撮影禁止だったのでそれ以外を。冬木氏が祖母と会った折、他のことについては記憶が曖昧になっていっている中、「The cherry trees by the school gate on the hills as now」という(戦前の女学校で教わった)英文を未だに鮮明に憶えていたというエピソードを起点に、記憶や価値(観)、さらにその先まで見はるかすことが企図された作品が様々な形で提示されていました。

 

 個人的には満洲国で使われていた子供向け日本語教科書の画像と戦後間もない頃に使われていた英語の教科書の画像とをシャッフルしてスライドショーした作品《させ られ》がなかなか興味深かったです。祖母が英文を憶えていたように満洲にも日本語を憶えている中国人(それは漢民族に限らないことは言うまでもない)がいること、教える/教わるという関係性が乱反射していること、それがひとりの人間という存在において痕跡として残っていることへとシームレスにつながるように構成されていたわけですね。

 

 従って、この展覧会において展開されていた冬木ワールドにおいては、祖母が憶えていた英文は諸作品の繋留点となりつつも、歴史的で非対称的な諸関係の乱反射の中に置かれることで特権的なものではなくなり──冬木氏の祖母が憶えている英文が、(例えばシェイクスピアが書いたような)有名な文学作品の一節とかではなく、「教育」という目的のために作られたシステマティックな文章であることは、いろいろ示唆的です──価値をめぐる交換/交流の中に置かれることになる《祖母にとっては大切な言葉でも誰かにとっては何の意味も持たないものであり、そのどちらもが美しいと思う》。

 

 このとき、冬木氏が価値をめぐる交換/交流を「複製」という観点から改めて俎上に乗せていることに注目する必要がある。近年は「多様性」という言葉がアートにおいても重大なミッションとして、特に社会や政治を主題とするsocially engaged art(SEA)において設定されて久しいわけですが、そこにおいては諸価値の並行的・水平的な複数性が前提とされている。しかし、複製やそれによってもたらされる「複数性」はかかる水平的な多様性(スーパーフラット⁉︎)とは別種の多様性を理論的に要請するのではないか。この点について田崎英明氏はマルクスフロイトを援用しつつ、次のように述べている([]は引用者による補足)。

 必要=欲求は満足させることができる。その満足のための手段を複雑化させることも可能だ。つまり、必要=欲求は進歩しうる。だが、精神分析が理解する「欲望」とは、満足の彼岸にあるもの、必要=欲求が満たされたあとにもなおしつこく残り、反復されるもののことである。もしも生きるための必要が満たされてしまったとしたら、人間にはあとに何が残るのだろうか。そのときでも人間はなお他者と関係をもとうとするのだろうか。分業の観点、それが前提とする必要=欲求の人間学からは、「そのとき人間は一人で生きていくだろう」という答えしか出てこない。

 

 (略)セクシュアリティは差異の問題ではないし、また、同一性(identity)の問題でもない。セクシュアリティとは同じであること(sameness, homoness)にかかわっている。それは反復の問題なのである。反復において個体は本質を表現する。すべての個体は唯一の本質の表現として平等である。

 

 たしかに[ジュディス・]バトラーも反復を通じて本質が構築されるのだという。だが、言説的な一元論、言説中心主義に対する私たちの不満はまさしくこの点にかかわっている。言説的実践の多元性(plurality)やそれらのあいだの敵対性(antagonism)を言説中心主義は語るのだが、それは分業の上で展開する水平的な、差異に基づく(したがって、必要=欲求の人間学に基づく)複数性にすぎないのではないだろうか。私たちはこのような、差異の反復を通じて同一性(identity)の構築を語る言説中心主義に対して、同じであることの反復を通じて本質を表現する実体論を対置したい。分業の人間学を超えない多元性(plurality)には、私たちは別の複数性、つまり、同じものの反復としての多数性(multitude)を対置しよう。

田崎英明「なぜマルクスフロイトは、構築主義者ではないのか」(竹村和子(編)『ポスト・フェミニズム』(作品社、2003)所収))

 

 

 ──長い引用となりましたが、ここで田崎氏が言っているのは「平等」にも二種類あるということである。今日のSEAにおける「多様性」は、それが諸価値の等価交換を前提とした「平等」であるが、「それは分業の上で展開する水平的な、差異に基づく(したがって、必要=欲求の人間学に基づく)複数性にすぎ」ず、したがって等価交換が実際は不等価交換であることが露呈したとき、その「平等」と、それに基づく「多様性」は崩壊することになるだろう(「そのとき人間は一人で生きていくだろう」)。

 

 「複製」がこのような「平等」や「多様性」への批判として機能するのは、このような位相において、です。「複製」は同じもの・同じであること(sameness)と、それが反復することにかかわってくる。田崎氏の言う「同じであることの反復を通じて本質を表現する実体論」は「別の時間にいる様々な人が差異を比較したり、共有したりできる」「複数存在するものである場合、異なる場所や様々な立場の違い、時代によって変化する社会的認識を計るためのアンカーポイントとなる」(←会場で配布されていた冬木氏のメモより)と明らかに呼応しています──いずれも、共時的な平面における等価交換とは違ったところから価値を再考しているからです。この点において、氏の射程はよくあるSEAよりもさらに遠くを見据えていると言えるでしょう。

 

 「それも美しい」展に戻りますと、以上のような迂回を経ることによって、冬木氏の祖母が憶えている英文は教育という不等価交換によってもたらされ、時空を超えてなおも彼女の記憶に残っているものとしてあることが、様々な作品を通して別様に「反復」されることで提示されている。あるいは接ぎ木された桜をウレタンで再現した《接ぎ木(コピー)》という作品においては、それはさらに直接的に取り上げられることになるだろう。桜は日本の象徴的な花とされることが多いものですが、それは挿し木や接ぎ木といった方法で、オリジナルの反復として広がっていくことで世代を重ねていくことはよく知られています。そして桜の花言葉は「善良な教育」だそうで、ここにおいて冬木氏の祖母が記憶している英文が──桜の木が反復によって増えていくということと重ねられることで──多様性に対する抵抗として、多様性ならざる多数性(multitude)の徴候として響くことになる。