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流転の好事家あたしかの公開備忘録

上出惠悟「静物/Still Life」展

 

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 Yoshimi Artsで9月21日から始まった上出惠悟「静物/Still Life」展。九谷焼の有力窯元の一つ上出長右衛門窯の後継者でもありつつ、一般的にイメージされる伝統的な九谷焼とは異なった趣の作品を作り続けている上出惠悟(1981〜)氏の、同ギャラリーでは三年ぶりとなる個展です。

 

 バナナ型のオブジェ陶やドクロ型の器を作ったり、絵付けなどによって(九谷焼に限らない)近世以降の日本の焼き物の史的な来歴を問い直す個展をこれまでYoshimi Artsで何度かにわたって開催してきた上出氏ですが、迎えた今回の「静物/Still Life」展では、一見すると伝統的な九谷焼の器や皿、急須、湯呑みに見えるけど実際は開口部や見込の部分も塞がった磁器作品が十数点展示されていました──つまり「九谷焼の器や皿などの形をした磁器製の立体作品」と言った方がいいような作品が並んでいたわけですね。成形して絵付けを施し、焼いた後上面を削ってちゃんと平らにするという工程で作られているそうですが、開口部や空洞のない磁器の塊でできた焼き物というのは、実作者ならずとも陶芸の概念が揺らぐ感がなかなかすごいわけで。実際、上出氏と少し歓談した際に聞いたのですが、同業者たちも失敗せずに焼き上がることが信じられないといった面持ちでこれらの作品を見ることしきりなんだそうです。

 

 とは言え、今回の出展作品の重要性は、そのような(超絶)技巧的な側面や、あるいは器のように見えて実はそうでもないというだまし絵的な相貌といった表層的な部分にないことはここで指摘されなければなりません。ここでも上出氏の関心はコンセプチュアルな部分に、より詳細に言い換えるなら──いわゆる「コンセプチュアリズム」が明確に志向しているような──コンセプトと歴史との交錯というモーメントに向けられている。作品はそこではこの両者の交点=緊張関係の徴として提示されることになる(近年、特にある種の工芸作品に対する賛辞として使われる「超絶技巧」という言葉は、むしろこのような緊張関係を隠蔽するものとしてあるのではないか)。

 

 これまでの上出氏の作品は、自身の作品を(九谷焼もその中に属する)日本の陶芸の歴史という縦軸と、陶芸という行為自体が持つトランスナショナリティや同時代性との対質という横軸との交点=緊張関係として提示するという思考/志向が強いものでした。例えば、先にあげたバナナ型のオブジェ陶にしてもドクロ型の器にしても、選ばれた題材の工芸というジャンル内でのありえなさや西洋美術史へのあからさまな参照・言及という点において、それは容易に見いだすことができるだろう。対して、今回の作品は陶芸としてのいわゆる「用の美」を完全に逸脱している相貌からして明らかなように、縦軸=陶芸史への意識よりも横軸=現代というジャンル横断的な平面上における美術とりわけ彫刻との関係性において見ることを鑑賞者側に促すようなものとしてあり、さらに言うと(展覧会タイトルに如実に現われていたように)「静物」として提示されていたことや、台座上の白く塗られた敷板も込みで販売されていたことからも見えてくるように、絵画との類縁性も企図されている──そう言えば上出氏は東京藝術大学で油画を専攻していたそうで、そのことも影響を与えていると考えられます。

 

 ところで、初日の21日には、国立国際美術館副館長の中井康之氏と上出氏の対談が行なわれました。中井氏は自身がキュレーターとなって2013年にgallery αM(東京都中央区)で開催した「楽園創造(パラダイス) -芸術と日常の新地平-」展に出展作家の一人として上出氏を選定しており*1、また今回もこの「静物/Still Life」展に合わせてテクスト「上出惠悟の新作《静物》を見るために」を寄稿するなど*2、上出氏の仕事を現代美術側から語るに際して重要な役割を担ってきています。今回の対談においても上出氏の個人的な来歴から話を始めつつ、氏の作品や活動がいかに現代美術としての/現代美術としても強度のある展開を見せているかが中井氏の手際の良い整理によって聴講者にも伝わるものとなっていたわけですが、その中でキーワードとなっていたのが「質感」と「空間感」であったことに注目すべきでしょう──特に後者は、今回の出展作品が上述したように絵画との類縁性も企図されていたこととも重なって、重大である。

 

 「空間感」をめぐって、対談の中で上出氏が語っていた経験談が興味深いものでした。それはこのようなエピソードである──とある本で上出氏や上出長右衛門窯の作品が写真つきで紹介されることになったのだが、背景がカットされた形で作品写真が掲載されそうになり、嫌悪感を覚えたそうです。一般論として、器(あるいは皿でも壺でもいいのですが)はその内部に空間を抱えているものですが、それが当たり前のこととされていることでモノと外部空間との関係が置き去りにされている、そのことが耐え難かったというわけです。この話には上出氏が陶芸と現代美術とを両睨みにする際の一貫した基本姿勢がよく現われていると考えられる。中井氏は今回寄稿したテクストの中で

 

上出の今回の新作は、焼き物という日本の伝統工芸を彫刻という純粋芸術の領域で登場させることを考えたものである。(略)かつてオブジェ焼きと称し、茶碗の用途を外すことによって工芸と美術の垣根を取り払おうとした動きがあった。上出は、その様な搦め手ではなく、20世紀美術が辿ってきた道を踏まえながら、真正面から彫刻という領域に挑んでいる。

 

 

 と述べておりますが、「焼き物という日本の伝統工芸を彫刻という純粋芸術の領域で登場させることを考え」る際に、かかる(器が内包する)内部空間と(器を外から規定する)外部空間との潜在的な相克を主題にしているところに、上出氏の考察の独自性・独創性があることは言うまでもない。したがって、今回の対談で両氏によってクローズアップされた「空間感」とは単なる感傷・もののあはれの類ではなく、彫刻という領域に、あるいは(中井氏のテクストでは言及されてませんでしたが)絵画という領域に真正面から挑むためのツールであり、さらに言うと──外部空間が必然的に歴史性と同時代性を含むものであることを経由することで──自らの仕事がコンセプチュアルなものであるために必須の要素であるわけです。それは、近代以降の彫刻が外部空間との関係を作品という形で主題化するものであり、自作をそこに登場させることを志向している以上、必然である(で、それは、対談の中で出てきたもうひとつのキーワード「質感」にも言えることであろう)。

 

 工芸を現代美術に着地させること、あるいはこの双方の界面を作品という形で、しかし現代美術のフォームにおいて作り出すこと──これらが主に若手工芸作家にとって重要なミッションとなって久しく、とりわけ陶芸においては質的にも量的にも興味深い試みが見られるものですが、今回の「静物/Still Life」展は、上出氏個人のみならず、そういう試み全体に対するマイルストーンとなっているのではないでしょうか。

*1:一般的なグループ展とは異なり、年度ごとにキュレーターが選定した美術家の個展を連続して開催するという形態で行なわれている。「楽園創造」展では上出氏の他に平川ヒロ、池崎拓也、コンタクトゴンゾ、佐藤雅晴、安村崇、八幡亜樹が選定されていた。

*2:

http://www.choemon.com/wp/wp-content/uploads/2019/09/a8f77cb5833f294e0c3ff2bd8e24b26e.pdf