みヅゑ…

流転の好事家あたしかの公開備忘録

イガわ淑恵──「キョウセイ社会“平成”の先にあるもの─」展

f:id:jnashutai:20190627154724j:image

 

 東山三条界隈にあるKUNST ARZTで4月30〜5月5日の日程で開催されていたイガわ淑恵「キョウセイ社会─“平成”の先にあるもの─」展。関西を中心に活動し、今年の岡本太郎現代美術賞(TARO賞)に入選したイガわ淑恵(1987〜)女史の3年ぶりの個展。

 

 今回はそのTARO賞に出展された《民主主義キョウセイマシーン》と、イガわ女史がここ数年描き続けているドローイング連作《今日のもがき》の中からチョイスされた分が出展されていました。《民主主義キョウセイマシーン》は2017年に京都市美術館で開催されたLINK展で初めて発表された作品で、投票箱を模したオブジェとモニター、ランニングマシーンを組み合わせたもので、モニターに次々と出される二択のお題──時事的で実際の選挙においても争点にもなりうるもの──に対して走りながら制限時間内に眼前の投票用紙に書いて投票するというもの。一方、《今日のもがき》は溺れている自分自身をメインモティーフにしつつ、その日に起こった事件や話題(大は国際情勢から小は自身に降りかかった出来事まで)についてイラスト化して描くという作品で、2014年以来ほぼ毎日描き続けているという。一見して分かるように、どちらも時事的・政治的なニュアンスを色濃く帯びた作品となっていると言えるでしょう。展覧会の会期が平成と令和をまたがっていたことも、その印象を強めている。


 《どんなに忙しくても、解答が分からなくても、考えるのが嫌になっても、考え続け、然るべき時に自分の意見を“表明”する。それが民主主義である。これは、日本人の怠慢を心身ともに叩き直すための機械(マシーン)である》──以上のような扇動的でもあるマニフェストとともに発表されたこの《民主主義キョウセイマシーン》ですが、「考え続けること」「意見を表明すること」に基軸を置く民主主義観(というといささか大げさですが)や、この作品における「キョウセイ」が「共生」であるとともに「強制」でも「矯正」でもある──実際、マニフェストの別の箇所では「これは、日本人を強制してでも矯正する作品」と、より直截に書かれている──ことなどから、この作品における「民主主義」が、かつて丸山眞男(1914〜96)が唱えていた「永久革命としての民主主義」と共鳴するものであることが容易に指摘できます。丸山において「民主主義」とは既存の制度に内在する生(今なら「パターナリズム」と言い換えることができるでしょう)に対する永遠に弁証法的な運動であり、そしてその限りにおいて人々をその内部において主権者=市民=国民へと訓育するものであった。しかしこの作品においては、そういった「永久革命としての民主主義」が戯画化されていることに注目しなければなりません。「永久」という時間性はベルトコンベアの循環に、「革命(=訓育)」はランニングという運動に、それぞれ置き換えられているからです。その意味で《民主主義キョウセイマシーン》は「永久革命としての民主主義」という戦後民主主義の理想が、資本主義の高度化にともなって、いわば無限のラットレースのごときものに変質していることを露悪的に示していると言えるでしょう(そしてこのような観点から見た場合、この作品はむしろ(昨今の民主主義論において世界的に悪役とされることの多い)ポピュリズムの戯画化という様相をも見せることになるでしょうが、それはまた別の話です)。


 ところでイガわ女史はKUNST ARZTでの初個展だった「おまえらの代わりならいくらでもいる!」展(2013)に《ごみにもなれない》という映像作品を出しておりまして、これはイガわ女史がゴミ袋の中に入って普通ゴミの日にごみ置場に佇み、清掃業者や通行人の反応を記録するという、ある意味とかという留保なしにヤバい作品だったのですが、今日の状況においては、《民主主義キョウセイマシーン》と並べられるべきなのは、むしろこの作品であろう──自らゴミ、ジャンクになること、それが資本によって掠め取られた「永久革命」に対する革命という今日の難題に対する第一歩であろうからです。