みヅゑ…

流転の好事家あたしかの公開備忘録

「タイムライン──時間に触れるためのいくつかの方法」展

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 当方が令和時代最初に見に行ったのは、京都大学総合博物館で4月24日〜6月23日の日程で開催されている「タイムライン 時間に触れるためのいくつかの方法」展。「時間」をテーマに井田照一、大野綾子、加藤巧、𡈽方大、ミルク倉庫+ココナッツという面々を出展作家とするグループ展です。

 

 「タイムライン」という考え方は、SNS時代に入ってUIに実装されることで一挙に拡がった感がありますが、呟きや記事、画像、動画などなどがそれ自体相互の脈絡をほぼ持たないまま時間の流れに沿って配置され、それを追尾していくという一連の行為は、単一の時間軸という概念を一方で強化しつつ、しかし「違ったタイムライン上にいる自分以外の誰か」を思い出させることによって複数の時間に開かせる契機にもなりうる。その意味でこれまで文学的・レトリカルに考えられてきたこと(「複数の時間」「複数の歴史」など)がリテラルに実現している/しつつある状況にあるわけで、そのような状況をいかなる形で可視化しつつ応接するかが(裏)主題になっていたと、さしあたっては言えるかもしれません。

 

 したがって、この「タイムライン」展においては、時間そのものというより、時間を物質に変換させたり固着させたりすることで再配置や操作が可能なものにする、そしてそうすることによって時間が単一なものではなく事前/事後的な複数性のもとにあることを作品によって示すことが出展作家たちに概ね共通した手つきとなっているように見えたわけですが、出展作品を見るにつけ、それがかなりハイレベルでなされていたことに瞠目しきりでした。極端に単純化された(紙切り芸を連想させる)形のものを様々な石材で作る大野綾子女史、自作のペインティングを科学的な分析にかけ、その結果できた画像(画像?)も絵画として展示する加藤巧氏、暴走した化学反応をそのまま放置したような相貌のインスタレーションといった趣の作品を出してきた𡈽方大氏、そして身近な事物や行為を例示することで時間を固着させ、操作できるものに還元してみせるミルク倉庫+ココナッツ──特にミルク倉庫+ココナッツはタジン鍋キセル乗車、PCコンクリート、プラスティネーションされた握り寿司(!)などを用いて「時間をスキップする」「未来を先取りする」といった(言葉尻だけとらえると)SFめいた感覚を覚えさせる状況に、実は私たちが普段の生活の中で意識することなく接していることを説明的に示していて、実に「タイムライン」展らしい作品となっていたのでした。

 

 そして、上述した新作たちと並べられ、この展覧会において大フィーチャーされていたのが井田照一(1941〜2006)の作品であったことは、きわめて重要である。1960年代以降版画の分野で重要な仕事を多くものしてきた井田ですが、今回出展されていたのは《タントラ》という連作。紙の上に即興的なドローイングを施して身近なものを手当たり次第に貼りつけることで作られており、若い頃から死の直前まで長年にわたって折々に作られ続けた日記的作品ですが、今回は豊田市美術館の収蔵作品と、なぜか連作に数えられることなくこれまで未公開だった作品が出展されていました。井田は自らの版画について「Surface is the between.」という謎めいたフレーズをしばしば使っていましたが、「表面は間である」というこのフレーズには、版画がほかならぬ版と画の「間」において生成されるものであり──だから井田は(特に70年代後半以降)この「間」に異物をどんどんさし挟むようになり、もって一般的な版画のイメージを飛び越えた超作品を次々と作っていくのだった──したがって井田における「間」は単なる中空ではなく、様々なモノゴトがひしめき合いせめぎ合う充実した場となるのですが、ところでかような井田の「間」がモノゴトが圧縮された場であるという点においてSNSのUIにかなり近接していることに、私たちは留意する必要があります。「タイムライン」という観点から見ると、井田の生を縦軸としつつ、そこにおける彼の行為が複数の時間へと多方面に発散していく様子をいわば横軸として「表面=間」において再演したのが《タントラ》なのである。

 

 大学が併設している博物館での展示ということで、美術館とはひと味違った展示となっていましたが、そういうところも含めて得るところの多い展覧会でした。