みヅゑ…

流転の好事家あたしかの公開備忘録

おかんアートと現代アートをいっしょに展示する企画展

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okanart.jp

 

 京都市立芸術大学ギャラリー@ KCUAで8月8日〜30日に開催の「おかんアートと現代アートをいっしょに展示する企画展」を見てきました。主に神戸市を中心に活動している「下町レトロに首ったけの会」の企画による展覧会。〈おかんアート〉とはおそらく関西人以外には聞き慣れない言葉でしょうが、「おかん」は関西においては母親のことを呼ぶときの俗語であり、従って「おかんアート」とは母親ないし中高年の女性が(主に暇つぶしに)作る作品のことであると言えるでしょう。

 

 「おかんアート」(”おかん”は関西弁で”母親”の意)とは、主に中高年婦人が余暇を利用して製作する手芸作品や創作活動全般の事を指します。 しかし、この言葉は単に”母の作る手芸作品”を指し示すと同時に、いらないもの(もらって置き場に困るもの)・ センスの悪いもの(もっさりしたもの)等といった、残念な意味合いで使われることも多い言葉であります。 本展ではこの「おかんアート」に見られる表現の面白さに注目し、おかんアートと共におかんアート的な手法や雰囲気を持ち合わせる現代アートの作品をピックアップ、それらを区分けなしに展示します。 おかんアート・現代アートといった、それぞれの文脈や属性があいまいに溶け合う場で、見え隠れする表現そのものの面白さにご注目ください。

公式サイトより

 

 

 ──というような、関西人にとってはいまさらに過ぎる前置きはさておき、この「おかんアートと現代アートをいっしょに展示する企画展」展(以下おかんアート展と略)は、そのタイトルから、そして上にあげたステイトメントから一見即解できるように、〈おかんアート〉と「現代アート」を同じ展示室内に混ぜこぜに展示することそれ自体を目的とした展覧会であると、さしあたっては見ることができます。従って、そこでは両者の異質性よりも同質性の方が際立つような作者と作品がセレクトされていることになる。先ほどのステイトメントにおいては〈おかんアート〉について《この言葉は単に“母の作る手芸作品”を指し示すと同時に、いらないもの(もらって置き場に困るもの)・センスの悪いもの(もっさりしたもの)等といった、残念な意味合いで使われることの多い言葉でもあります》とより踏み込んだ定義がなされていますが、「現代アート」の側もそれを受けて手芸的なテイストを強く感じさせる作家と作品がより多く出展されていたわけですね。

 

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 かかる観点から見たとき、個人的には中村協子女史の《孤独なフェティッシュ》シリーズや、ムラギしマナヴ氏の《実家美》シリーズが「「現代アート」側から見た〈おかんアート〉」度がなかなか高かったように思うところ。前者はヘンリー・ダーガーの絵画というか妄想絵巻に描かれた少女たちの衣服をお人形サイズで作ったといった趣の、後者は(古い住宅にありがちな)子供がシールをベタベタ貼ったり落書きしたりした壁をそのまま切り出したかのような趣の作品ですが、文字通りの手芸作品という点で、あるいは家庭内にある「センスの悪いもの(もっさりしたもの)」の要素を濃縮したような一隅を主題にしているという点で、これらは確かに「「現代アート」側から見た〈おかんアート〉」という再帰的な自己言及それ自体を見るべき作品となっていたと言えるでしょう。このほかにもアップリケを多用した作品を出していた青木陵子女史やヘタウマ感あふれるイラスト的な作品を出していた森田麻祐子女史あたりにも「現代アート」側から見た〈おかんアート〉的要素をさほど困難なく見出すことができる。

 

 で、そういう「現代アート」側の作品を一見するとカオスそのものな展示空間に混ぜ込むことによって、おかんアート展は〈おかんアート〉の「現代アート」による簒奪・収奪とも、あるいは逆に「現代アート」の〈おかんアート〉による土俗化・オタク文化化とも異なるキュレーション的達成を見せていたのでした。これは企画者が〈おかんアート〉の推進者──実際、「下町レトロに首ったけの会」は神戸市内で〈おかんアート〉のワークショップや作品集の出版などを10年にわたって続けているという──だからという表層的なレベルで済ませられないものがある。

 

 リヒターをはじめとするドイツ現代美術や現代写真についての著書が多い美術評論家の清水穰氏はとある文章の中で次のように述べている。

 

 現代(=今現在の)美術はおばさんにはなかなか受け入れられない。一つにはもちろん、それらの価値がまだ定まらないからである。うちのカタログに掲載されるのは選び抜かれた本当の本物だけです、というわけだ。しかし、もう一つ、より本質的な理由があるだろう。それはおばさんのほうが現代美術だから、というものである。だから生半可な現代美術は必要とされない。(略)おばさんのほとんどは短大や大学を卒業したあと、短い会社勤めを経て結婚し、その後ずっと社会から放っておかれた存在なのである。男社会の中で「女」や「母」を演じつづけ、その後舞台を降りた彼女らの中に、数十年間かかって純粋な非社会性の結晶が沈殿する。それを「永遠に女性的なるもの」と呼んでおこう。男社会の粗雑な理解をすり抜けてしまう「永遠に女性的なるもの」は、基本的に性別(それは男社会によって押しつけられる)とは関係ないが、二十世紀末の日本では都市周辺の家庭の女性に多く宿っている。

(清水穰『永遠に女性的なる現代美術』(淡交社、2002)、18-19)

 

 

 ここで清水氏が言っている「おばさん」を「おかん」に、「現代美術」を「現代アート」に置き換えると、この文章はほぼそのまま〈おかんアート〉について論じたものとして読むことができる──つまり〈おかんアート〉とは「永遠に女性的なるもの」である。清水氏の所説において「永遠に女性的なるもの」とは「数十年かかって」「沈殿」した「純粋な非社会性の結晶」であるわけですが、〈おかんアート〉もまた家庭内において作られ、沈殿していくものという点において「純粋な非社会性の結晶」となっている。その「純粋な非社会性の結晶」を、しかしそういうものにとどまらない何かとして提示しているところに〈おかんアート〉のコンセプト的な強度が存在するのでした。

岸田良子「TARTANS」展

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 galerie 16で8月18日〜29日に開催の岸田良子「TARTANS」展を見てきました。1970年代から現在に至るまで折々で作風を転換させつつ活動を続けている岸田良子女史ですが、2010年からは同じ「TARTANS」というタイトルで個展を続けており、今回はその第10弾(!)となります。

 

 「TARTANS」というタイトルから即座に分かるように、スコットランドの民族衣装を飾るタータンチェック模様をモティーフにした絵画が出展されているわけですが、図鑑に載っている模様を(カンヴァスのサイズに合わせて拡大する以外は)いっさいアレンジを加えずに描き出すという姿勢をずっと崩さずに続けてきてまして、しかも絵筆を使わずペインティングナイフとマスキングテープを使用しているため手描き感がほとんどなく、一見するとレディメイドのようにすら見えてくる。とは言え、このシリーズの見どころは、岸田女史のかかる確かなテクニックにではなく、図鑑に載っているタータンチェックをそのまま描くことそれ自体にあることは、ここで指摘されるべきでしょう。布地/織物に施された模様をそのまま平面に描き出すという行為は、オリジナル/コピーという問題系や、あるいは二次元の模様をモティーフにそれを二次元の絵画に描き出すという行為自体が持つ自己言及性をも含みこむものとなっているわけですが、いずれにしましても、そこでは岸田女史自身の個性というべきものはさしあたり消去されている。かような作品に見られる自己/個性の消去というのは、言ってしまえばデュシャン以後のモダンアート〜現代美術においてはきわめて基本的な所作となっており、その意味で岸田女史の行為もまたそのような所作のひとつの現われと見ることができるのですが、しかしそのようなありふれた言い方で消去することのできない強度というのが彼女の作品において顕在化しているのもまた事実である。

 

 岸田女史の作品や行為が持つ強度を見定める際に、ジャスパー・ジョーンズについて瞥見することはきわめて有益であると考えられます──それは「TARTANS」展における、タータンチェックを絵画に写す=移すという行為がジョーンズの星条旗をモティーフとした絵画と明らかに並行していることに顕著に見られるような即自的な近似にとどまらない。ジョーンズはレオ・スタインバーグによるインタビューの中で自身の仕事に頻出するモティーフについて、モティーフ自体の好き嫌いではなく「ただ(それが)そこにあったというところが好きなのです」と発言している。このジョーンズの発言が重要なのは、主観といったものなしにモティーフ=対象を扱うという態度がそこに現われていることにあります。ここにおいてジョーンズは主観の側からの「自己/個性の消去」とは違った形での「自己/個性の消去」があることを端的に示しているわけですが、それは主観の側からの「自己/個性の消去」が結局メタ的な形での自己/個性を回帰させてしまう──そういった例は枚挙にいとまがない──ことに対する抵抗として機能しているわけですね。その意味で、岸田女史の作品や行為が持つ強度というのは、かような「自己/個性の消去」が別種の自己/個性に回帰してしまうことへのジョーンズ的な抵抗として作品が存在することにある。「TARTANS」シリーズも、おそらく参照先である図鑑に掲載されたパターンが尽きたらその時点で終わるのでしょうが、逆に言うと対象との間にそのような関係しかないこと自体が、岸田女史の「自己/個性の消去」の条件としてあるわけで、そういう形で主観のメタ的な再生産を押しとどめているところにこそ、彼女の特筆大書すべき美質があると言えるでしょう。

 

 ところで、ここ数年のgalerie 16における岸田女史の個展ではこの「TARTANS」シリーズの新作と並行して、彼女の1970年代から80年代の仕事の再展示も行なわれています。これまで俳優女優のポートレートABC…順に並べた26冊の本や自身が収集した和洋中さまざまな料理店のメニューを並べ直してリストアップした本などが出展されていましたが、今回は1984年の個展に出した《住宅地名》が再出展されています。全国各地にあるニュータウンの地名やマンション名を取り出してカード化しているというこの《住宅地名》ですが、一見しただけではどこにあるのか容易には分からない名前も多く存在しており、その意味で固有性を剥ぎ取られた記号の集合に名前を還元していることになるわけで、つまりここでも主観的な操作は排除されている。「TARTANS」シリーズから逆算して見てみると、岸田女史の興味や関心が表層的なメディアやメディウムの差異を超えて一貫していることが即理解できるのでした。

関本幸治「光をまげてやる」展

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 千本三条にある京都場で開催中の関本幸治「光をまげてやる」展(http://kyoto-ba.jp/exhibition/koji-sekimoto-bend-light/)を見てきました。関本幸治(1969〜)氏はキヤノン写真新世紀で佳作を受賞したことがあるなど、写真家として一定の評価を得て久しいですが、当方は黄金町バザール(2010)や激凸展(2011)といったグループ展で写真作品に接したことがあるものの、個展は今回が初めてでして。

 

 そんな関本氏、ジオラマや人形などを自作しそれを撮影するという作風で知られていますが、この「光をまげてやる」展ではそうして撮影された写真とともに被写体となったジオラマも展示されておりまして、より多角的に氏の作品に接することができます。で、実際にジオラマに接してみると、細部のとりわけ動植物の作り込みのレベルがなかなかなものがあり、現実の模型的な再現という方向性とは違った魅力のあるものとなっていましたが、その一方でどこか歪な印象を見る側に与えるものとなっていました。ここで重要なのは、かかる歪さが、作られたシチュエーションの歪さとは別のレベルにおける歪さを含み込んでいるということです。

 

 私が作り上げた撮影セットは博物館のイメージがある。博物館は写真を三次元にしたかのようである。温度湿度が管理された中で、道具や衣装は触れることができない。すなわち展示物は、過去の生活を彷彿させはするが、生きてはいない。私はこうした偽物の空間を制作し、さらにそれをカメラという装置で、嘘の上塗りである写真に置き換える作業を行なう(会場で販売されていた小冊子『写真館の椅子』(BankART1929、2014)より)

 

 ──関本氏は自作のジオラマについて、以上のように「博物館」の比喩で語っていますが、被写体を含めた自作と博物館との共通点として「偽物の空間」であることをあげ、博物館を「写真を三次元にしたかのよう」なものとすることによって、「写真」の、とりわけこの言葉が含んでいる「真」の自明性自体を揺さぶりにかかっていると言えるでしょう。関本氏の作品における歪さは、被写体を自作して撮影するという一連のプロセスのどこにも「真を写す(ものとしての写真)」という要素が存在しないことにあるわけです。かくして、氏の写真からは「真(なるもの)」は剥ぎ取られ、「嘘の上塗りである写真に置き換える作業」によって、虚/実は相互に反転する中で消失していく。それは虚/実という二分法の埒外におけるまったく不分明な何か──それをヴァルター・ベンヤミンに倣って〈大衆〉と呼んでも、そう突飛な連想ではない(ベンヤミンにおいて〈大衆〉は写真技術の副産物として19世紀において初めて現われるものとされる)はずです──を召喚することになるだろう……

 

 というわけで、関本氏の作品は、例えば杉本博司氏がとりわけ初期において自然史博物館や蝋人形館の展示物を好んで被写体としていたことと、被写体のチョイスや遂行的に示されるスタイルという点において明らかに連続しているわけですが、杉本氏と違って自分で被写体を作るというプロセスを導入することで、写真が「偽物の空間」をめぐる技芸であることが、そしてその点において撮影という行為が「嘘の上塗り」であることが、より直接的に現われている──今回出展されていたジオラマが《Lady Justice》というタイトルだったことは、どこか暗合めいていますし、そして「「偽物の空間」をめぐる技芸」としての写真という側面は、この展覧会において一緒に展示されていた(激動の時代を生き抜いたという設定の)四姉妹の自作フィギュアを被写体としたシリーズにおいて、さらに加速していくことになる。

 

 虚実がめくるめく反転していく関本ワールドを堪能できる、関西では貴重な機会となったのでした。30日まで。(9月6日追記:9月27日まで会期が延長されています)

木村友南「インターネット葬」展

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 アトリエ三月で7月31日〜8月11日に開催された木村友南「インターネット葬」展を見てきました。透明アクリルを素材として用いた作品でたまにSNS上でバズることがある──とりわけ、「エビデンス」とあしらわれたアクリル製メリケンサックといった趣の《エビデンサック》はtwitter上で大ウケしていたものです──木村女史ですが、今回はアクリルをjはじめとした透明な素材を多用しつつ、「インターネット葬」という個展タイトルから醸し出される不穏感がさらに加速された作品が多く出されていた。透明アクリルはもちろん、塩化ビニールや鏡、EL管、文字化け、卒塔婆梵字、バーコードなどが素材や意匠として濫用されているところに、それは如実に現われています。

 

 私たちは「個」の境界をどこかへやってしまっている。/インターネット、特にSNSの登場以降私たちは様々な感情を外部化するようになった。/それは「身体性の喪失」という問題でもある。/傷すらも外部化されている私たちの失われた身体を回復するための弔いに祈りを込めて。

 

 ──かかる木村女史のステイトメントはSNS以降の時代認識としてはなんとなく共有されてそうなことを最大公約数的に言語化したといった趣ではあるのですが(←褒め言葉)、そういった認識から出発しつつ、サブカルチャーやネットカルチャーにおけるサイバーパンク的な意匠を導入すること、そしてそれらが往々にして「死」のイメージをまといやすいし実際そういうイメージのもとに語られ生産されてきたこと、これらをテコにして「身体性の喪失」に対峙し「傷すらも外部化されている私たちの失われた身体を回復」することが、通俗的な見かけとあいまってよりヴィヴィッドな印象をともなって観者に受け取られるようにしつらえられていると言えるでしょう。そしてそのような所作が「弔い」という言葉によって表象されているところが、彼女の作品にとって大きな賭金となっている。その意味や意図がいかなるものなのかについて、もう少し作品を見守る必要がありそうです。

 


 ところで同所の1Fを使用してmanimanium「birth」展も同時開催されていました。以前からフォトグラファーとして幅広く活躍しているmanimanium女史、今回は女性を被写体とした写真作品を出展していましたが、モデルさんの肌に超接写した写真作品が個人的には非常に印象的でした。ポップさや生が横溢しているかのような集合写真と並べることで、逆に様々な明暗の境界としての肌(skin)が強調され、もってモデルさんたちの身体がskinにおけるイメージの闘争の場として立ち上がっていたわけで、こちらにも瞠目しきり。

 

大石茉莉香「ラクリモーサ」展

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 KUNST ARZTで8月1日〜9日に開催の大石茉莉香「ラクリモーサ」展を見てきました。以前の同所での個展では花の写真をフォト用紙の裏面にプリントアウトし、定期的に水をかけることで洗い流すという作品を出展していた大石女史ですが、今回はどこかから調達してきた半壊したディスプレイを用いたインスタレーション作品を出しています。

 

 タイトルの「ラクリモーサ Lacrimosa」とは、モーツァルト作曲のレクイエムの中の一曲で、彼の絶筆としても知られていますが、今回大石女史は半壊したディスプレイたちにその「ラクリモーサ」の演奏動画──まさにモーツァルトの絶筆となったところで音声が自動的にoffになる──を流し、床面には自筆譜の絶筆となったページの超拡大コピーと大石女史の手でカチ割られたガラス板を配していました。一見すると全体的に「死」のイメージが濃厚に漂っているインスタレーションといった趣を見せているわけですが、しかしもう少し仔細に接してみると、ことはそう単純ではない。このインスタレーションを構成しているのは、単に「死んでいる」ものではなく、画面が割れてるけど何も映らないわけではないディスプレイ(大石女史いわく、部品取り用として販売されているものを買ってきて、以前からストックしているそうだ)だったり、あるいは演奏されている「ラクリモーサ」自体、モーツァルトの絶筆ではあるけど後世に弟子によって補筆されて「完成」しているものだったりというところに顕著なように、「生きている」と「死んでいる」を一義的に分けられない、フランケンシュタイン=フレッシュゴーレム的なモノであるからです。その意味で今回のインスタレーションにおいては「「死」のイメージ」がというより、死後の生と生前の死が交差し混濁している謎の状態のイメージが表現されていると言うべきであり、それは以前の個展における作品が「(イメージの)死」を引き延ばすことを意図していたことと明らかに連続していると言えるでしょう。

 


 ところで別室に展示されていたもう一点のインスタレーションは、やはり半分故障したディスプレイと棺桶を模したオブジェによって構成されていましたが、そこでのディスプレイが室内の様子をライブで映し出しつつ、しかし映っている人やモノが見ようによっては透過状態になっており、観者もまたディスプレイの中で生霊状態になることができたわけで、この故障の仕方はあまりにも絶妙過ぎるし、そういうのを使った時点で圧勝(←何にやねん)感があって、こちらも良かったです。