みヅゑ…

流転の好事家あたしかの公開備忘録

関本幸治「光をまげてやる」展

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 千本三条にある京都場で開催中の関本幸治「光をまげてやる」展(http://kyoto-ba.jp/exhibition/koji-sekimoto-bend-light/)を見てきました。関本幸治(1969〜)氏はキヤノン写真新世紀で佳作を受賞したことがあるなど、写真家として一定の評価を得て久しいですが、当方は黄金町バザール(2010)や激凸展(2011)といったグループ展で写真作品に接したことがあるものの、個展は今回が初めてでして。

 

 そんな関本氏、ジオラマや人形などを自作しそれを撮影するという作風で知られていますが、この「光をまげてやる」展ではそうして撮影された写真とともに被写体となったジオラマも展示されておりまして、より多角的に氏の作品に接することができます。で、実際にジオラマに接してみると、細部のとりわけ動植物の作り込みのレベルがなかなかなものがあり、現実の模型的な再現という方向性とは違った魅力のあるものとなっていましたが、その一方でどこか歪な印象を見る側に与えるものとなっていました。ここで重要なのは、かかる歪さが、作られたシチュエーションの歪さとは別のレベルにおける歪さを含み込んでいるということです。

 

 私が作り上げた撮影セットは博物館のイメージがある。博物館は写真を三次元にしたかのようである。温度湿度が管理された中で、道具や衣装は触れることができない。すなわち展示物は、過去の生活を彷彿させはするが、生きてはいない。私はこうした偽物の空間を制作し、さらにそれをカメラという装置で、嘘の上塗りである写真に置き換える作業を行なう(会場で販売されていた小冊子『写真館の椅子』(BankART1929、2014)より)

 

 ──関本氏は自作のジオラマについて、以上のように「博物館」の比喩で語っていますが、被写体を含めた自作と博物館との共通点として「偽物の空間」であることをあげ、博物館を「写真を三次元にしたかのよう」なものとすることによって、「写真」の、とりわけこの言葉が含んでいる「真」の自明性自体を揺さぶりにかかっていると言えるでしょう。関本氏の作品における歪さは、被写体を自作して撮影するという一連のプロセスのどこにも「真を写す(ものとしての写真)」という要素が存在しないことにあるわけです。かくして、氏の写真からは「真(なるもの)」は剥ぎ取られ、「嘘の上塗りである写真に置き換える作業」によって、虚/実は相互に反転する中で消失していく。それは虚/実という二分法の埒外におけるまったく不分明な何か──それをヴァルター・ベンヤミンに倣って〈大衆〉と呼んでも、そう突飛な連想ではない(ベンヤミンにおいて〈大衆〉は写真技術の副産物として19世紀において初めて現われるものとされる)はずです──を召喚することになるだろう……

 

 というわけで、関本氏の作品は、例えば杉本博司氏がとりわけ初期において自然史博物館や蝋人形館の展示物を好んで被写体としていたことと、被写体のチョイスや遂行的に示されるスタイルという点において明らかに連続しているわけですが、杉本氏と違って自分で被写体を作るというプロセスを導入することで、写真が「偽物の空間」をめぐる技芸であることが、そしてその点において撮影という行為が「嘘の上塗り」であることが、より直接的に現われている──今回出展されていたジオラマが《Lady Justice》というタイトルだったことは、どこか暗合めいていますし、そして「「偽物の空間」をめぐる技芸」としての写真という側面は、この展覧会において一緒に展示されていた(激動の時代を生き抜いたという設定の)四姉妹の自作フィギュアを被写体としたシリーズにおいて、さらに加速していくことになる。

 

 虚実がめくるめく反転していく関本ワールドを堪能できる、関西では貴重な機会となったのでした。30日まで。(9月6日追記:9月27日まで会期が延長されています)

木村友南「インターネット葬」展

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 アトリエ三月で7月31日〜8月11日に開催された木村友南「インターネット葬」展を見てきました。透明アクリルを素材として用いた作品でたまにSNS上でバズることがある──とりわけ、「エビデンス」とあしらわれたアクリル製メリケンサックといった趣の《エビデンサック》はtwitter上で大ウケしていたものです──木村女史ですが、今回はアクリルをjはじめとした透明な素材を多用しつつ、「インターネット葬」という個展タイトルから醸し出される不穏感がさらに加速された作品が多く出されていた。透明アクリルはもちろん、塩化ビニールや鏡、EL管、文字化け、卒塔婆梵字、バーコードなどが素材や意匠として濫用されているところに、それは如実に現われています。

 

 私たちは「個」の境界をどこかへやってしまっている。/インターネット、特にSNSの登場以降私たちは様々な感情を外部化するようになった。/それは「身体性の喪失」という問題でもある。/傷すらも外部化されている私たちの失われた身体を回復するための弔いに祈りを込めて。

 

 ──かかる木村女史のステイトメントはSNS以降の時代認識としてはなんとなく共有されてそうなことを最大公約数的に言語化したといった趣ではあるのですが(←褒め言葉)、そういった認識から出発しつつ、サブカルチャーやネットカルチャーにおけるサイバーパンク的な意匠を導入すること、そしてそれらが往々にして「死」のイメージをまといやすいし実際そういうイメージのもとに語られ生産されてきたこと、これらをテコにして「身体性の喪失」に対峙し「傷すらも外部化されている私たちの失われた身体を回復」することが、通俗的な見かけとあいまってよりヴィヴィッドな印象をともなって観者に受け取られるようにしつらえられていると言えるでしょう。そしてそのような所作が「弔い」という言葉によって表象されているところが、彼女の作品にとって大きな賭金となっている。その意味や意図がいかなるものなのかについて、もう少し作品を見守る必要がありそうです。

 


 ところで同所の1Fを使用してmanimanium「birth」展も同時開催されていました。以前からフォトグラファーとして幅広く活躍しているmanimanium女史、今回は女性を被写体とした写真作品を出展していましたが、モデルさんの肌に超接写した写真作品が個人的には非常に印象的でした。ポップさや生が横溢しているかのような集合写真と並べることで、逆に様々な明暗の境界としての肌(skin)が強調され、もってモデルさんたちの身体がskinにおけるイメージの闘争の場として立ち上がっていたわけで、こちらにも瞠目しきり。

 

大石茉莉香「ラクリモーサ」展

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 KUNST ARZTで8月1日〜9日に開催の大石茉莉香「ラクリモーサ」展を見てきました。以前の同所での個展では花の写真をフォト用紙の裏面にプリントアウトし、定期的に水をかけることで洗い流すという作品を出展していた大石女史ですが、今回はどこかから調達してきた半壊したディスプレイを用いたインスタレーション作品を出しています。

 

 タイトルの「ラクリモーサ Lacrimosa」とは、モーツァルト作曲のレクイエムの中の一曲で、彼の絶筆としても知られていますが、今回大石女史は半壊したディスプレイたちにその「ラクリモーサ」の演奏動画──まさにモーツァルトの絶筆となったところで音声が自動的にoffになる──を流し、床面には自筆譜の絶筆となったページの超拡大コピーと大石女史の手でカチ割られたガラス板を配していました。一見すると全体的に「死」のイメージが濃厚に漂っているインスタレーションといった趣を見せているわけですが、しかしもう少し仔細に接してみると、ことはそう単純ではない。このインスタレーションを構成しているのは、単に「死んでいる」ものではなく、画面が割れてるけど何も映らないわけではないディスプレイ(大石女史いわく、部品取り用として販売されているものを買ってきて、以前からストックしているそうだ)だったり、あるいは演奏されている「ラクリモーサ」自体、モーツァルトの絶筆ではあるけど後世に弟子によって補筆されて「完成」しているものだったりというところに顕著なように、「生きている」と「死んでいる」を一義的に分けられない、フランケンシュタイン=フレッシュゴーレム的なモノであるからです。その意味で今回のインスタレーションにおいては「「死」のイメージ」がというより、死後の生と生前の死が交差し混濁している謎の状態のイメージが表現されていると言うべきであり、それは以前の個展における作品が「(イメージの)死」を引き延ばすことを意図していたことと明らかに連続していると言えるでしょう。

 


 ところで別室に展示されていたもう一点のインスタレーションは、やはり半分故障したディスプレイと棺桶を模したオブジェによって構成されていましたが、そこでのディスプレイが室内の様子をライブで映し出しつつ、しかし映っている人やモノが見ようによっては透過状態になっており、観者もまたディスプレイの中で生霊状態になることができたわけで、この故障の仕方はあまりにも絶妙過ぎるし、そういうのを使った時点で圧勝(←何にやねん)感があって、こちらも良かったです。

 

 

今道由教展(2020)

 西天満にあるOギャラリーeyesで7月13〜18日に開催の今道由教展を見てきました。今道由教(1967〜)氏は1990年代から作家活動を続けていますが、近年は天神祭(今年は中止になりましたが……)の時期にこのOギャラリーeyesで個展を行なうことがなかば恒例化している。当方は2015年の個展で初めて今道氏の作品に接して以来毎年見に行っておりまして、今年も無事、氏の新作を見ることができた次第。

 

 《絵画における視覚的な図像と物質的な支持体との関係に着目し、支持体となる紙の両面性を活かしながら、支持体そのものへ物理的に働きかけることから生まれる表現を探っています》(プレスリリースより)──今道氏自身がこのように語っている通り、Oギャラリーeyesでの個展においては、例えば紙の表面と裏面をそれぞれ違った色で塗ったあと切り込みを入れて折り返すという作品や、紙をフリーハンドで裂いては折り曲げることを繰り返してできる不定形の両面に異なる色彩を施した作品、あるいは両面を違った色のポスターカラーで塗り、濡らしながらクシャクシャにする──ポスターカラーに耐水性はないため、二つの色はプロセスの中で混ざり合うことになる──作品など、様々な手段によって「支持体そのものへ物理的に働きかけることから生まれる表現」を探究してきておりますが、迎えた今回はトレーシングペーパーにストライプ柄を印刷し、折り紙の要領で折り返していくという作品が中心でした。

 

 先ほどいくつか例示したように、紙の両面を、というか、紙という支持体の両面性を生かして、表と裏が相互反転的な様相を呈するように作られているところに今道氏の作品の眼目があるのですが、今回の出展作の場合、ストライプ柄を構成する二色がそれぞれトレーシングペーパーの表と裏に分けて刷られています。従って私たちが表面上における出来事としてとらえるのは実際には表面と裏面に分割された形で制作されているわけです。そのように作られた紙が折り返されることで表/裏という要素が混濁され、幾何学模様は単なる表層的な色面ではなく、一種の奥行きをともなって立ち現われてくるようにしつらえられている《1色ごとに作成したストライプ・パターンを表面と裏面に分けてプリントすることで、表裏のそれぞれの色帯が互いに透過して縞模様が形成されるようにしました。この用紙を図柄が水平・垂直や直角につながるように内外に折り返していくと、表面と裏面が入れ替わりながら屈曲した色帯が幾何学的な図像を作ったり、折り込まれた内側の色帯の重なりが幾何学模様を浮かび上がらせたりします》(プレスリリースより)。


 一見すると表面における出来事として現われてくるパターンがしかし表面と裏面にいったん分離され、トレーシングペーパーという支持体の特性によって事後的に統合された形で作られており、その支持体自体を折り重ねて制作することによって支持体/表面という二分法とは違った形で平面を経験する──ここ数年の今道氏の作品はこのような志向性を強く帯びていることから、1970年代のフランスにおいてブームとなったシュポール/シュルファス(support/surface)とある程度連関していると考えられます。絵画/平面を支持体(シュポール)と表面(シュルファス)との両端からなるものと定義した上で改めてこの双方をつなぎ直すという論理構成によって作品を制作することがシュポール/シュルファスにおいては目指されることになり、従って「描くこと」はパラメータ化された両端を事後的に再統合していく行為と再定義されることになるのですが、しかし今道氏の(少なくとも近年の)作品においては、支持体に直接的に手を加えることが、描かれるモティーフや色彩なしに遠近法的な空間を作ることと深くかかわっていた──この意味において、今道氏の行為は(絵画について語る際に私たちがなんの気なく濫用する)〈絵画空間〉を、トレーシングペーパーを用いてヴァーチュアル(仮想-実効的)に作り出していると考えられます──という点において、いわば「シュルファスなきシュポール」というべき独特の位相を思考/志向していたと言えるでしょう。それがどのような射程を遂行的に開示することになるか(例えば「絵画」/「彫刻・立体」という二分法についてはどうなのか、とか)、さらに考えていく必要があります。

「Online / Contactless」展

https://www.youtube.com/watch?v=XHK_yajCwAo&feature=youtu.be

 

  今年に入ってから全世界的に感染が拡大している新型コロナウイルスの影響によって、人が集まることでクラスター感染源となる可能性が高いことから、国や地方自治体による緊急事態宣言の発令に合わせて実店舗が長期間にわたって休業を余儀なくされてしまうようになったのですが、ギャラリーも例外ではなく、最近ようやく営業を再開するところが散見されるようになったものの、3月・4月は大半が休業し一部では通信販売で作品販売を行なうようになっていました。そんな中、the three konohanaとYoshimi Artsの共同企画によって5月22〜31日の日程で開催されていた「Online / Contactless」展(以下O/C展と略)は、以上のような状況の推移の中で構想され開催されたことを早いうちから前面に押し出していたことで注目すべき展覧会であったと言えるでしょう。

 

 O/C展の概略を軽く説明しておきますと、企画した双方のギャラリーが取り扱っている計五名の作家──レイチェル・アダムス(1985〜)、泉茂(1922〜95)、加賀城健(1974〜)、加藤巧(1984〜)、興梠優護(1982〜)──の小品を中心とした作品をthe three konohanaに展示し、会場内のインスタレーションビューと個々の作品のズームアップからなる5分ほどの動画をYouTube上で公開する(上リンク参照)というもの。作品画像や映像を自サイトや各種SNSに上げることによって実店舗での展示に代える動きは新型コロナウイルスの感染拡大以降急速に常態化していきましたが、このO/C展では会期中の5月30日に開催された出展作家やギャラリスト出席のトークショーを(テレワークが推奨される中で普及していった)zoomを用いることによってオンラインで開催したり、会期中の一部の日時にthe three konohanaのギャラリストである山中俊広氏がやはりzoomを用いて会場内からリアルタイムで配信し観賞者と対話する「オンライン在廊」を開催するなど、ギャラリー業務の過半を非対面型で行なっていました。「online」ばかりでなく「contactless」という要素もこれらの行為によって提示していたわけで、その点においてこの展覧会は「Online / Contactless」というタイトルに偽りのないものとなっていたのでした。

 

 このように、新型コロナウイルスと否応なしにつき合うことが求められている状況下における展覧会の作り方や見せ方、あるいはギャラリー業務のやり方を主たる考察の対象として企画/開催されたこのO/C展ですが、大急ぎで指摘しなければならないのは、この展覧会が俎上に乗せていたのは以上のような展覧会やギャラリーの設定・運営というテクニカルな位相にまつわる諸要素だけではないということである。

 

 それは上にあげた出展作家たちの作品に即して見てみることで、より明確になるでしょう──レイチェル・アダムスはアートとデザイン、実際の素材と見た目の素材感とを横断するようなオブジェ作品によって双方のギャップを強調しつつ架橋していましたし、加賀城氏は染色で使われる染料や糊の持つ意味性や物質性を創作の基盤とすることで染色というジャンルに固有の領域を拡張している(絵画との差異がここで強調されることになるだろう)し、加藤氏はテンペラやフレスコといった中世の西洋絵画の技法を現代にリサイクルすることと絵具の材料研究とを以前から両にらみにして画業を展開しているし、興梠氏は油絵から出発しつつその可能性を拡張していくような作品を国内/海外を滞在して回る中で探究し続けている(今回は以前から描いていたという「zoom画面の向こう側にいる人と対話しながら描いた肖像画」という、なんともタイムリーな小品を出展していました)。そしてこれらの作品に泉の主に1970年代に手がけられたエアブラシを用いて描かれた、まさに「contactless」を地で行った形で描かれた絵画を合わせると、今回の出展作家や出展作品が〈素材〉ないし〈材料〉といった要素をめぐっており、またそれらに対する意識や考察、見識が他の作家に比べても鋭い作家に集中していることが見えてきます。

 

 とすると、今回のO/C展は、両ギャラリーの所属作家による常設展のような外見を見せつつも、きわめて挑戦的な営為に貫かれていることになります──これらの作家の作品における素材感や〈材料〉への考察に、しかし見ている側は画面を通してでしか接することができないからです。古典的な図式で言い換えると「質料」をめぐる作品に「形相」的にしか接することができない、という。これがイラストレーションや具象・写実の作品であれば単に撮影してアップロードすればよいとしてもさほど問題にはならないのですが、O/C展の出展作品(をディスプレイを通して見ること)についてはまた別の問題系に開かれることになるかもしれません。

 

 そう言えば5月30日に行なわれたオンライントークショーでもフロア(フロア?)からの質問が少なからず〈アウラ〉((C)ヴァルター・ベンヤミン)をめぐってなされていたものですが、〈材料〉への考察を主題としたフィギュラティヴとは言い難い作品をディスプレイを通して見るという営為は、確かに〈アウラ〉といういささか古びた言葉・概念について思いを馳せるに良い契機になったとは言えるでしょう。個人的には〈アウラ〉というより、ヴァーチャル・リアリティについての議論の中で幽霊的に(?)浮上したりしなかったりする概念としての〈仮想化しきれない残余〉((C)スラヴォイ・ジジェク)という方がこの展覧会のアクチュアリティについて考える上でさらに示唆的であるように思うところですが。ちなみにそのトークショーの末尾で加藤氏が卒然と言った「あきらめの悪さを見てもらう(展覧会)」という発言は、O/C展のアクチュアリティと作家性とを両方視野に入れて考察する上で重要なパワーワードでした。